Beaver Board

二次創作の為の合板

感動について

 

 

感動とは、極めて不安定な状態である。

感情があわてふためき、あっちへ行ったりこっちへ行ったりして、意識は及ばず、ただ運動による熱だけがはっきりと認識できる状態である。あまりにも急激に温度は上昇するので、つかの間、幸福感でいっぱいになるが、この運動もずっと繰り返していれば、熱を持ちすぎて、身体は続かなくなるだろう。

程ほどにバランスを取らなくてはならないのである。その為に、外的な刺激に対して、今度は、こちらからそれを解放しなければならない、許容量を超えたものを欲張らずに処理していかなくてはならないのである。

だが、それにはまず、上がりすぎた熱を冷却する必要がある。激しい感動において、まずは冷静が必要になるのである。そのもっとも適当な方法が『言葉』である。

とらえどころのない、気化された感情を冷却して固体にする、形を与えたものがすなわち『言葉』である。


私は、意識的な人間である。

本来は、この一連の流れを本能的に行って、何事もなく生きている。しかし、私がこうして言葉を書き出しているのも、事を分けて論理的に解釈しているのも、逆説的に、それだけ私が感傷的な人間であるからだろう。

だから、言葉を重じて、意識を以て感動を先回りしながら、センチメンタルに過度に陥らないよう細心の注意を払って、自我意識において護身しようとするのである。言葉と向き合い、言葉を書いてゆく必要があると感じている所以はここにある。なかなか、自分本意である。

とは言いながら、人間のこころというものは全く込み入っていて、自分自身の傷つきやすさを他人に見せまいと、弱さを自嘲したり自虐したりして、自己欺瞞に陥ることも禁物なのである。寄りすぎると、また反対に大きく舵を切れば横転してしまう。意識を徹底したところにも陥りやすいあやまりがあることを忘れてはならない。

そう。この記述でさえ、他人よりもさきに自分の弱さをちゃんと認識しているということを納得させるために、わざわざ、言葉にしてまとめたものを、公共の場にそなえて置いて安心しているだけなのである。

しかし、それが不確定のものであると思うからこそ書くのである。それが誤謬であっても、再び現実を発見すれば、その度に書いてゆくより仕方ない。

だが、意識し過ぎるのも戒めなくてはならない。

いや、意識を徹底するのもただ自分が怖いだけなのだ。

社会生活のなかでは、人間は個人としては弱く限界があるために、いつも他人と結びついているのである。それは、相互に自分の弱点を提供しあい、ゆるしあうことで成立している。それは、やむをえないことである。

 

気が付いた時は、すでに極寒であった。

ただれてしまった皮膚からは、いかばかりの感覚も失われ、もと来た道を引き返そうにも、ふりしきる雪は、後ろにあったはずの足跡を消していた。かたちのない鈍色と、うすぼんやりの白だけが広がる、その先に何となく形を変えながら射し込む、じらじらと目を眩ませる光輝が、前へと足を進ませる、わずかな好奇心だった。

さて、まるで文体のはっきりしない、幼いこどもが画紙にいっぱいのクレヨンで気随気儘に色を付けていくように、私もたくさんの言葉を綴りたいと思うのだが、どうも理念的な文章がよく書けないのである。それは、ある意味では、言葉に侵されているとでも云えるだろうか。

言葉は社会性を以て、初めて意味を成すものであるが、言葉それ自体が感覚に先立ってしまっているのである。相手に伝えるための性質を見出すよりも、手段ではなく目的になってしまう、言葉それ自体の存在を重視してしまうのである。それはすべて、自分の感覚に触れるかどうかで何もかもを決めてしまう。ひどく個性的体質的なのである。しかし、この内的なものにこそ、『芸術』が深く関わっているのである。

かくも私は、これを絶対的真理が先に据えられた、ひかり輝く、ただ一つの純然たる道のように思っていた。

親切心に於いて、好意を持って人のためにすること、情愛のあるさまを、しばしば、温かさと言い表される。反して、親切ではない、非情であるさまを、冷たさと言い表される。私はこの冷たさこそ、芸術の中心的性質たり得るのではないかと考えている。それは、人間にとってマイナスの要素であるが、決して軽蔑できないものである。冷たさを無くして温かさはなく、温かさを無くして冷たさはない。人間の生を基本として、芸術を見詰めるところに美の探究があり、それこそが芸術の道である。芸術は実に、人生的問題である。また、人生は実に、芸術的問題である。どちらか一方を絶対として到達することを夢見、凝視、信奉していれば、それには及ばないのである。芸術対人生の図式が表現活動の問題である。

言葉とは、その方法のひとつなのである。

人間は相対的であり、その表現し得る芸術もまた相対的である。いずれも、絶対に融け込まないところにあるからこそ真理があり、それは人間のどんな行動に於いても到達不可能である。しかし、この諦観から、芸術は始まるのである。真理の探究は始まるのである。重要なのは、単純化に陥ることのないねばり強さを持った、誠実な意志である。相対的なる世界に、逆説的なる世界に、反自然的なる世界に、本当の美しさはあるはずである。

私が何故、言葉を必要とするのか、芸術に携わるのか、生きることに叛逆するのか、という問題は、ここに帰着する。今日ここに、私の現実があるのみである。もし仮に、また現実を発見すれば、筆をとるのであろう。