Beaver Board

二次創作の為の合板

SHHis について考えていること一つ二つ エッセイ風の創作

 

 

 

仮題『偶像の未来』草稿

( 旧仮題『偶像の時代』)


 あなたは、たとえば、ある夏の夜に、移動中の自動車のなかで、きらきらした都会の大通りを、ぼーっと窓から眺めているとき、なんとなく「大通りだな」と思って見ていると、ふと、いまとそっくりにおんなじことが、考えられもしない遠い遠い過去にもあったような気がしてくる。また、この自分たちの現在とは、実は遙か先の未来の夜にぞくするのではないかと思われてくる。そのとき自分のなかに、なにか大事な忘れものがあることに気がついた。夏の宵の生暖かさと街頭に広がる哀愁にみちた感覚。未知の十字路に差し掛かると見えてくる電飾と看板、ガラス越しに映ったお店の、賑やかな雰囲気。すれ違う大勢の人々の顔、またそのひとつひとつ、いま自分の隣に座って静かに息をついている彼女の、まるで能面のような顔の白さでさえ、あるいはそこに、ずっと前から自分の知っているあるものが含まれていることに気がつくと、あなたは、自分を載せた自動車が、このままはてしない無限の未来をめざして突き進んでいるのではないかと想起する。

 しかし、そのようなドラマチックなことが、そうざらに十分な意匠と万全な舞台装置をもっておこなわれえるものではない。現場監督の手腕がもとめられる。なにより役者の資格に欠けるところがあってはならない。いわゆる世の中に見られる成功や成就とは、日々の完全な筋書きの上に生じているのだ。このような形式に誤謬を感じずにはおられない彼らのような人々は、少なくとも彼らの内心において、身をかわしている。これは逃避だろうか? 否! そのような皮相的な見方をこえた、ある絶対的な、空虚なる無限の可能性の、光り輝いているあるものを、そこに見たのである。人間はつばさをもっている。時計の振り子がたえまなく左右に動いている。深い闇のかなたに青と赤の灯がしずかに明滅している。まっくらな部屋のなかを、お日さまが昇っては沈み、沈んではまた昇り、そしてまた夜が明ける。朝焼けの窓から見えた飛行機雲は、ひとしく彼らが背負うているところの、いつ果てるともなき空への追求を思わせる、鮮やかな虹色に輝いている。

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 今の在るがままの立場にとどまっているかぎり、ただ眼に見えるだけの幸福がのぞまれ、そこに漠然と憧れをいだく。しかしその目標をひとつでも手にしてみると、とたんにその無内容なことがはっきりする。つまり幸福の正体とは、退屈であり、それは慰安乃至同情をもって酬われる。はたして幸福とはなにか? おなじく不幸とはなにか? 自分のなかの空虚さと対話する。しかし存在が虚無でないならば、この幸福が結果として不幸であるはずはない。あなたは、ようやく本当の序章へと踏み出す好機会を得たのである。そうは考えられないだろうか?

 これで満足だというようなことはついぞ与えられない。そしてなによりその先には、とうぜんのように、あなたの変わりはてた姿をそこに示す「死」がひかえている。あなたは、その事実に絶望するだろうか? いったい自分がなにをしたというのか? これが人間の姿だというのか? 今後もその通りでよいというのか? じつにアダムの罪とは、その後の荒涼をほしいままにしている。人間は一人々々が罪のかたまりである。はたしてそのつばさは、天上へと到る可能性か、それとも地獄の使者たる徴か。

 はてしない空虚なる無限の可能性をそこに覚えるとき、あなたは、その途方もなさに不安をおぼえる。いっそのこと遣り切れない思いと共に、空中に身をあずけてしまうか、または眼の前にピストルがあったら、ということを脳裡に去来させるか。だが自己の肉体の勝手な破棄は、本来の意味における、幸福の観念には程遠い。むしろ逆戻りであることは想像にかたくない。慰謝料もおりないだろう。

 ほとんどは、その中間意見における行きつ戻りつの繰り返しである。だから、聖書の言葉をひらいても、お説教に耳を傾けても、まるで蠟をかむようなものだと云いがちである。かといって予言者の言行を写したものや、福音記者の敍述、その他いくつかの詩の上にも、おおむね見らるる美的鑑賞の高尚な対象物を出ない。まったく全人格的に権威あるものではないのである。ことに文化的社会的欲求の悉くを取り込んだ大衆社会にあって、あらゆる技術革新や文芸復興が、人々のあいだに人気を博している。世の中には、すでにそうした娯しみで溢れている。しかしそのいずれにも快適な生活の範疇を出るものはなく、ほとんどが本来的な救済のまえにおける、憂さ晴らしにほかならない。もちろん、この文章も多分に洩れない。いまこそ、救われるべく必要なのは、ひたすら前進してゆこうとする無闇な平行運動にあらず、上昇による垂直運動にあり。つまりは、人間的信念の追求にはあらず、外部への超絶的信仰に、その望みがあるとは考えられないだろうか?

(しかし、やはりさまざまなバラエティのなかから抜きん出るようなものを創造してゆくには、結局、そうした超絶的なものが必ずどこかにもとめられてくるのではないか? 傑作の条件は、それが無限の観念にまでつづいているかによるのではないか?)

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 まことに、それは救われるべき、幸福になるべく要素はなにものも、そこに持ってはいなかったのである、というような気づきである。ここに一箇の、あなたという空虚なる無限の可能性の存在が、俄に判明する。あなたにはつばさがあった! はたしてそのあとに、とうぜん来るべきものとはなにか? 自己の心身の脱落と喪失! 脈搏の急激な弛緩! 舞台上にあがるとき、あなたはもう舞台にいない。エラン・ヴィタルの波濤、いよいよ迫り上がって、あなたは無限の未来の世界を、いま飛び翔てゆく。じつにこの境地にあって、時間と空間の意識は崩れ去り、すべての周囲の事象は、忽ち自分の足元から辷り落ちてゆく。あなたには微かな笑みが零れる。あなたは泣くべきときに笑っている。すぐ眼の前には、天上へと導かれし祝福があるにもかかわらず、どうして掴むことができないという、この悲惨! ひとりでは、じっと辛抱していることもかなわないという、この悲惨! まとわりつく静寂のために、なによりも音楽を愛しているという、この悲惨! どうすればよいのかも判らず、あげくのはてには、笑いをおさえられないという、この悲惨! あなたは、この危機一髪にさいして、あなたという自己の真相を、はじめて確認するやも、あるいはいかに。

 ひそかに、あなたを追っていた影の存在が、その始終を、ずっと観察していた。舞台上には、ひとつの偶像があるだけにすぎない。まったく人間とは、かつてあったままの姿では、儘ならぬようである。よくもまあ、このような複雑怪奇なものを造った、神々もいたものだ。永劫に罰せられる運命にあるというのに、この行末を思い遣るときには、あまりの無知さに、または敢えてそれを顧みずに、その身を震わせながら殿堂へと参上する姿は、健気である。

 しかし、そこはまもなく、独壇場となるだろう。それは静かに静かに、またたくまに形を成すのではあるが、霧の立ち昇るがごとく、壮麗な音楽の旋律とともに、その歌唱とともに、出現するのである。

 そこには、あの連日連夜の狂躁の有り様は、もう見られない。喚声は掻き消え、誰も彼も息を殺し、その真空に生じた、形而上的結晶の耀き、すなわち「アイドル」の存在は、彼をして益々嘱目させる。

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音楽はとまらない。だから黙って聴いていて。駆け出す心のBPMを、抑えられない旋律を。わたし (she) がわたし (she) になるための、1000カラットの物語を。

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 以上は、お伽噺の一種だと思っていただければ、幸いである。しかし、お心のある方々にあっては、少しでも SHHis のうちにある、なにかを、きっと感じ取ってくださるにちがいない。だが実際には、SHHis のふたり、七草にちかさん と 緋田美琴さん が、これからどういうふうなアイドルになってゆくのかについては、私の考えの及ぶところではない。

 はじめて ふたりの W.I.N.G.編 を、ひと通り観たとき、ついに個性の確立による自己実現ではなく、自己脱却をも目標にしてゆくようなアイドルが出てきたと感激した。しかし思い違いのばあいもある。

 すなわち、自分という主体性からの脱出、または自己言及の論理からの解放による、ある物質的精神への回帰である。しかし、それは決して、いわゆるあやつり人形のような、人間性を喪失させる物質観ではない。精神の深奥に対するイメージの具現化、観念の実体化、夢想の形態化による物質観である。精神そのものであるところの物質を、研ぎ澄まし、磨き上げ、人工的極致によって昇華する奇蹟の結晶。または、ダダ乃至はシュルレアリスム の方面から言葉をかりて「オブジェ」とも言い表したい。

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 アイドルが、もしそういうものとしてそのままでよいのならば、ただそれだけのものになってしまう。そうなるとアイドルは「文明の利器」になる。もちろん、そうした側面はつねにある。しかしいまもとめられているのは、もっとべつのものである。わたしたちは、もしそういうものとして、ただそのままでいたのでは、死んでしまうよりほかはない。それゆえに心理的な操作として対象化をおこなう。それがいわゆる「アイドル」となり、あるいはそのような存在を、わたしたちはつねに必要とする。

 本来「宗教」がそうであるように、大切なのは、神仏や霊感の表出ではなく、つまりは存在の危機にあって、どこからそれを恢復する力がもたらされるか、なにが存在の起死回生の発動機になりうるか、という問題である。今日見らるる宗教のごときは、そのほとんどが対象化のための想像力をすべてある民主制に委ねている。多くのばあい、その想像力はフィクションのなかにのみ生きている。しかしそれが現実に直接交渉してくることはきわめて少ない。

 想像力は、たえずどこかに向かって波打っている。それは複合的かつ輻湊的に、なにかを取り込んだり、なにかを引きずったりして、つねにその先に光を放っている、あるものを追っている。つまり、可能性にあふれている。それがひとつにまとまると、あるイメージとなり、それが対象化される。

 対象化されるものには、たとえば神とか仏とか、鬼とか悪魔とか、または超越的な何かが目立つが、実際にはそのまえに、現在の自分の存在より、もうひとつ、べつの存在、代わりの存在が、そこに想定されているはずである。しかし、それを模索したり表現したりすることに夢中になると、知らず知らずのうちに理屈っぽくなってしまいがちである。そこにあったはずの光はいつのまにか見失われている。忘れてはいけない。それが自分のまえのもうひとりの自分であり、その対のなかに光があったことを。

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 ここにいっそうの努力と機会が伴うならば、と、いつまでもそんなことを云っている。だが自分には落ち着いて考えていられるような暇はない。しかしそれだけでこの現状がなんとか打開されるだろうと本気で思っているのか? いまだに神の代理たらんとする人間主義の誇大妄想のなかに答えを見出そうとしている。人間らしいといえばその通りだろう。

 おもえば、この人間らしさという謂には、おのずから相反する二つの意味が含まれている。ひとつは自然的存在のなかにいまもひらめく道徳律において善悪を判断するところの崇高な部分に。もうひとつはある事態から同情をもって迎えられるところの、生まれついての欲望を基台とする本能の部分に。

 この天使と悪魔の板挟みに捲き込まれたような、絶対と相対の対立のなかに自身との格闘をえんじている存在こそが、すなわち神のまえに救いをもとめさ迷いつづける人間という種である。葛藤と責苦の只中に、なお「死」の運命によっておびやかされ、いまや神とのさかいに設けられた隔たりは尖鋭化をいや増し、為す術もなく罪の汚名をかぶせられる。この境涯にあって、幾度となく自己の限界のうちに突っ撥ねられるが、その接触点には、電気が逬る。つまりこの本来的苦悩と面接する現在意識にあったのは、すなわちどんなに失敗がつづいて困難な状況にあったとしても、なお幸福は得られると信ずる、謙虚さと勤勉さではなかったか? この苦悩のうちにこそ、ある「感動」が見出されるのではないか?

 いまの今まで思いもかけていなかったイデアが、ここにはずっとあったのだ。いわく「アイドル」、この存在に、自分はまだ気がついていなかった!

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 このとき、もはや「生きるべきか、死ぬべきか」ということは問題ではなくなる。かわりに、それが「どこから来て、どこへ行くのか」というテーマに移り変わる。存在の不安などはなんでもない。ただ存在がどうあるかが問題なのだ。存在がいつか無くなってしまうことへの不安ではなく、むしろ存在がいつまでも終わらないことへの不安なのである。

 存在の基盤は「アイドル」にある。そして、そこから自分自身の存在をそこに先駆けてゆくことが、まさに為すべきことである。肉体はひとつの過程にすぎない。つまり、それは自己の神聖化ではない。それは対象化ではなく、いうなれば対消滅なのだ。

 もうひとつのべつの存在として、「アイドル」が把握されたあとに着手されてゆくべきは、こうした「アイドル」の実現である。それは全体のすべてをとらえているわけではない。なぜならそれが自分のイメージのなかのものであるかぎり、そこには最も肝心な自分自身の存在が欠けているからである。

 いま、この存在を、その最後の扉にいたるまで、自分のなかの先端にすべてかけなければならない。ここに投じられるもの、つまり存在にたったひとつ残されているものこそ、すなわち「死」である。「死」は、いまや幾千夜にわたる友であり、伴侶である。なぜならそれがなければ、人生は灰色のまま「感動」による生彩をもつことはなかったからである。「死」と向かってゆこうとする、モラルこそ、「アイドル」の実現のための薫陶だったのである。

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 このような精神性には、禁欲的な傾向が見られるのだろうが、むしろ、そこにあるのは制限の排除である。類型もなく、評判もなく、ただひとつのことに忠実であるというだけなのだ。しかし、純粋性を有する人々の特徴として、生活を考慮に入れない、ということがあげられる。生活には安定できない。なぜならそこに適当な対象を見出すことができないからである。それゆえに苦労も身に付かない。だがいつも何かに悩み、反省し、何かを為そうとしている。彼らの周りには、いつも見えない何かがある。

 生きているあいだ、だれしもその周りにつながりをもっている。それは簡単に消えるものではない。なぜならそれが、いま自分という存在がここにあるという根拠だからである。もし途中でそのつながりが断たれているとしたら、その前とその後の連絡はつかない。途切れていないからこそ、自分とはまた昔ながらの自分であり、今日とは、昨日からの今日なのである。このような因果律は、おぼろげな認識としてはわかるが、そのことに確信が持てるときもあれば、ある時は、そう思われないときもある。

 自分という存在とはなにか? これを自分という個人のなかにのみ問うているようでは、いつまでもその存在に気がつくことはできない。このとき自分は、ある「時間」の観念にとらわれている。それはせっかちなところからきている。そこには「現在」しかない。「未来」がなくなっている。けっきょく「死」とは「無」であり、「終わり」なのである。そのため「現在」がいつまでもつづくことを希い、それを失うことを、なるべく惧れるのである。

 しかし、それっきりどこにも居なくなってしまうということが、はたして本当にあり得るだろうか。「無」とは、つねに期待するようなものは何もないという失望を代弁するための言葉である。しかし「無」は、いまも「無」としてその消息をたたえている。つまりは、そこに存在するものとして、それ以外の、時間や空間のなかにとらえきれないものを、言葉にしたのが、すなわち「無」なのである。

 いまここに世界が存在し、また自分という存在がそこに疑われないかぎり、ふと立ち止まって何かを考え込ませたり、何かを思い出させたりするようなあるものが、必ずそこを通過しているはずである。そのことを意識するとき、自分という存在のうらに広大無辺の背景がひろがっていることを、はじめて自覚する。すなわち永遠不滅の概念である。または永遠の接線に近づいている。何かにおどろいたり、きれいだなと思っているうちは、そこに「時間」はない。「時間」など、本当はないのではないか?

 わたしたちが「現在」を意識するとき、それは他に対して、または自分自身に何かを語りかけているときである。この意識には、あらゆる過去の時間、すなわち「記憶」が基礎となっている。これはすでに「現在」ではない。しかし、過去とは「現在」の一瞬々々のつらなりとして、どこまでも溯ることができる。どこかに終着点があったとしても、それははてしなく引き伸ばされてゆくのである。そして、未来とは、これらを前方に反射させたものである。

 このような「現在」が、「無限」に深まるとき、わたしたちは「どこから来て、どこへ行くのか」という問題に、あらためて差し掛かるのである。

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 これまで、シャニマス のイベントコミュ では、たびたび「時間」の概念がモチーフとして見られてきた。最初に意識しはじめたのは、イベントコミュ『アジェンダ283』からである。

 河原でのゴミ拾いの最中、そこに捨てられているさまざまな事物のなかには、ある時間が流れていることに気がつく。それらの時間の意識は、アイドルによって解釈のしかたはさまざまであり、そこには新たに登場した ノクチル の独特な時間の感覚も、その議題のうちのひとつにあったのかもしれない。

 シャニマス において、主に語られる「時間」の概念は、いつも物質化されている「時間」である。始まりがあり終わりがあるような、大きな川の流れのような時間ではなく、また、フィクションのなかに安易に想像される、停まっている時間でもない。世界が時間の上にのっかっているのではなく、世界とともに時間が存在するのである。時間がそこにあるのではなく、部屋という「時間」がある、または部屋そのものが「記憶」であり「思い出」なのだ。あらゆる事物が、それ自体として「記憶」であり、「思い出」として、そこに光っているのである。

 「時間」そのものが、そこにあるわけではない。しかし意識のうちに「時間」は必ず関与している。科学的に「時間」を測ることはむずかしいことではない。秒針の歩みはひとつひとつが独立している。次から次へと流れてゆく。だが、そのたびに流れた「時間」はどこかに葬り去られている。ここでは「未来」を考えることはできない。では、意識は、どういうふうに「時間」をとらえているのか?

 すなわち、どこからが「過去」で、どこからが「現在」で、どこからが「未来」なのか?

 意識とは「現在」にある。「過去」から「未来」に移っているわけではなく、つねに「現在」にあるのである。そのときの「現在」において「過去」と「未来」があり、それが「現在」をつくっている。でなければ、「現在」を意識することはできない。「過去」は忘却され、ただ「未来」を期待しているだけであったら、「現在」とは、単にそこにあって当たり前のものとなるだろう。しかし、いまここに「死」をまえにして、自分自身のうらに語りかけてくるものがある。それは、いつか取り戻されるべきところの、ある懐かしき「背後からの声」であり、または、いつか取り戻されるにちがいないという、なんともすがすがしき「前方からの声」である。

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 ある夏の夜のこと、都会の大通りの景色は、ただ透明に、そのまま「無限」に深まり、通ったことのない道も、見たことのないお店も、行きちがう自動車も、無数の人影も、みんなそこから見えてくる。あの移動中の車のなかにあった、不思議な情緒は、そもそもなんだったのだろう? しばらくのあいだ自分を駆り立てていたあの追及と焦燥をわすれて、まるでそのときは「永遠」に感じられたのである。

 そこにおいて、ようやく自分という存在は、それ以外の事物との、本当の接近を為し得るにいたる。まことに、この孤独な存在にあって、はじめて、「愛」を規定し得るのである。自分よりほかの存在のうえに、はじめて生きることができるのである。

 わたしたちが、いま幸福のためにはじめられるのは、個人的な「愛」しか、そこにはない。まずは、おのおのが自分という存在に、今までとはまったくちがう考えかたをもつ必要があるのだろう。しかし具体的な方法については、ここでは云えない。

 ダイヤモンドを見つけるには、苦心と工夫がつきものである。それはただ郊外のひとすみにあって、獲得され得るものではない。しかしそれを忍びさえすれば、必ずその反対のものとして、ある気づきを得ることはできる。これは「宿命」なのだろう。

 

 

宗教とは直接な事物の流転の彼方にあり、背後にあり、又内部にあるもの。幻視である。実在であって、しかも実現を待っている或る物——最も遠い可能性であって、しかも現実の事実中の最大の事実である或る物——去来する総てのことに意味を与え、しかもわれわれの理解では捉えにくい或る物——それを有することが至高の善であって、しかも到達しがたい或る物——究極の理想であると共に、望みなき探索である或る物——この或る物へのヴィジョンである。

 

 七草にちか の「アイドル」は、「郷愁」に。
 緋田美琴 の「アイドル」は、「感動」に。