Beaver Board

二次創作の為の合板

自作を回顧して綴る 2021.01.18

 

 

 

シャニマスでなければ、私は二次創作をはじめることはありませんでした。どんなに深い発想も受け容れてくれるような、とても自由な領域が与えられたような気がしたのです。

こと更に衝撃を受けたのは【我・思・君・思】という中の「かなかな」です。それが自分の二次創作をする、直接のきっかけになりました。

もっとも、自分の書いたものが二次創作と呼べるかは、いまだにはっきりしませんが、……

 

『病室』というのは私の処女作で、いま思えば、書き上げられたことが奇跡のような作品です。 最初の構想は、「長閑な療養所に勤める看護婦の霧子さん」と「海に遠く憧れを抱く少女」というだけで、内容や構成はほとんど考えず、あとは今まで読んできた文学作品を思い出しながら筆にまかせて書いてゆきました。結末は意図せず、その都度、ぼんやり考えていたのは、日本の昔話のような「あわれ」という概念、「成就」よりも「循環」してゆくという構成が、霧子の物語にぴったりなのではないかということです。「何も起こらなかった」ということが生じる、「無」が生じる、ということを意識して最後は書いていました。主に参考として傍にあったのはロマン派の文学、堀辰雄や初期の三島由紀夫の作品でした。三島由紀夫の小説には文学的に大きな影響を受けています。小説を書くことに、まだまだ素人な自分は最初、三島由紀夫さんの「文章読本」を実践的な味方にしていました。それに学んで「観賞的文章」を心がけています。

 

『あいにさらさら』というのは、それから半月もしないうちに、半ば衝動的に書いたものです。青森県に「あいにさらさら」という歌い出しの童歌があるそうです。それは小さい子供が、軽い怪我をしたときに、大人が優しくさすりながらとなえてくれるおまじない、「痛いのさん……飛んでいけ……!」というような童歌です。

霧子も小さい頃に歌ってもらって、それを今度は歌ってあげる、という情景を書いたものです。 そのささやかなおまじないが、お祈りとなって、危篤の少年の思い出のなかで「救い」になる。霧子の思いがけないところで、ある「言霊」が、少年に力を与えてくれる、ということを考えて書いたものでした。ちなみに、これと『病室』のふたつは、いま考えれば、サナトリウム文学にあてはめられるのでしょうか。……?

 

『言下』というのは、凛世のことを書いたものですが、とても難しかったのを覚えています。【凜凛、凛世】の「雨宿り」を下敷きに書いた作品です。

私は邦楽の中でいちばんと言うほど、井上陽水が好きなのですが、井上陽水さんの楽曲のなかに忌野清志郎さんと共作したという「帰れない二人」という曲がありまして、このコミュをみたときに頭に流れてきてぴったりだと思ったのが、書いてみようと思ったきっかけでした。

しかし、最初はあまり思うように筆は進まず、とても苦労をしましたが、それもこれも特に内容を考えずに、凛世と二人きりで居ることの張り詰めた感情と、雨のつめたさを、たんたんと、表してゆくことに専念していたからでしょうか。書き出しの一文に納得が入ったところから、徐々に形になってゆきました。凛世には、恋愛という大きな主題がありますが、つめたさに生じる暖かさ、二人きりの四阿にある空間の疎外感、その端々に恋という概念、エロスの愛を際立たせられると良いだろうと考えていました。なので専ら、参考として傍にあったのは、川端康成の作品でした。ここでは、まだ初恋のようなあどけなさが残るものに止まりますが、さらに追求すれば、G.R.A.D.編に見られるような片恋も表現できるのでしょうか。しかし、あんまり大人っぽくてもいけないような気もしますから、やはり、この塩梅は相当難しそうです。

 

『雪解抄』というのは、それから半年もあけて、久しぶりに筆をとって出来たものでした。

小説を書くことに自信をなくしていたのですが、あまり難しいことを考えずに、自分の感性だけをたよりにして、一文ずつ、なかなか面白い連想の、丁度よいなと思うものだけをあつめた詩の世界を、そのまま「雪」というイメージに照らし合わせたものと言えるでしょうか。

『黄昏』というのも、ほとんど同じです。理性に制御されずに、無意識のうちにある言葉を書き付けてゆく「自動記述」「オートマティスム」という手法を用いています。ですが、その時にはパッと出てきたものが、あとから考えればなにか見覚えのある言葉であったりして、その気づきの面白さと、この手法の難しさを感じました。

「お医者さんごっこ」のような子供じみた遊びを、さも「神話」のように語って尤もらしくする、というような感じでしょうか。霧子の体をパン、血液を葡萄酒に見立てた儀式を執り行う、というのは、少しエロティックな後付けですが、霧子はいつも遠い眼をしているでしょう。

 

『幽谷霧子と或る少女』というのは、あまり私自身が語れることはありません。宮沢賢治の「マリヴロンと少女」と「めくらぶだうと虹」という作品をオマージュしたものです。

宮沢賢治は、われわれの労働の中にこそ、生活の中にこそ「芸術」がなければならない、ということを云いました。彼女は「医者」を志していますが、その誠実さ、優しさ、強かさ、それらはすべて、彼女の大きな創造性や感受性に根差しているものなのではないでしょうか。本来は「医者」という職業には、況して日々の生活の中には、全く関係のなさそうなクリエイティブな思考が、実はそれらを支えている根幹をなす重要な部分なのかも知れない。そういうようなことを考えながら書いていました。

本当は、「人生」と「芸術」という対立から、「ストーリー・ストーリー」のことも踏まえて、話してゆきたいなと思うのですが、うまく言葉に纏められる自信がないので、今度にします。

 

『ある晩、お月様とデートする話』というのは、題名からも分かる通り、イナガキ・タルホ ・コスモロジーに触発されて書いたものです。

いかにも「一千一秒物語」に出てきそうな題名ですが、実際には、そこまで天体に親切なことはありません。月に殴りかかるくらいです。

ところで、なぜ自分が、これほど幽谷霧子さんに気を引かれるのかといえば、それは本質的に、ほとんど違う人間だからなのかも知れません。霧子は将来的に医者に落ち着くのでしょうが、おそらく私はこのままずっと創作に打ち込んでいるでしょう。彼女が太陽的だと言うのなら、私はつくづく、自分が月球的だと思うのです。「ルナティック」であろうとしているのです。

月球的な人間というのが存在します。太陽の裏にあって、周りが暗くなれば、それに憧れるように光を反射する。しかし、その身に近づいてみれば、ただ荒涼とした土地があるばかり。いつもすまして高貴なふりをしては、うちにひそむのはフラジリデートな、薄情さ、感傷さの為に、意地の悪さや意志の強さを応援する。そんな、月球的な人間が世の中には存在しています。

しかし、なぜか対極にあるはずの彼女は、そういう想いが馬鹿馬鹿しくなるほど、なにもかもを受け止めてしまう、包摂してしまう、そしていくら掬い上げても滾々とわき出て止まない、源泉であるような心の深さを想わせるのです。

かならずしも彼女を太陽的だとは断言できない、ある種の共感があるのです。それはこちらからなのか、それとも向こうからなのか、それがお互いさまであれば、とても幸せなことです。