『偶像の将来』—— わたしの「シャニマス」
シャニマス について考えていること一つ二つ
2026/02/01
本稿は、『シャニマス』の批評を試みるものでありながら、猶且つ『シャニマス』における、アイドルの「無限の可能性」あるいは「実在性」をより敷衍し、広義的な「アイドル」の可能性、乃至は将来性を導きだすための、「崇高」の概念に及ぶ、試論である。
それ故に、『シャニマス』の意図やメッセージ性を考察するものには、必ずしもなり得ない。
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世界は巡る。僕たちは何度でも出会い、始まりの一日を繰り返す。どこまでも予定調和で、退屈な日々。この世界において知らないことはすでになく、全ての出来ごとが既視感によって色褪せている。いつか経験したことが全てであり、それらは最早、繰り返される日々を実感する役割を果たすのみ。僕たちは世界がループしていることを理解しながらも、堂々巡りの日々をやり過ごすことしかできない。未来はすでになく、そして、未来がなければ過去もない。ひたすらに分断された今が連続し、果てのない連なりが眼前に広がっている。変化もなく進歩もなく、僕たちが僕たちであることを、忘れてしまうのに十分な程に。
世界は退屈で、しかし平穏である。誰しもが退屈を望み、誰しもが変革を望まない。無意識は無変化を選び取り、それは世界の意志と呼べるものである。繰り返しの日々を良しとし、世界に石は投げられない。すなわち、世界の意志こそが円環を維持している。そして同時に僕たちも世界である以上、僕たちも円環を支えている枠組みに過ぎない。すでに他人ごとではなく、僕たちは僕たちの本当の姿を忘れ、変化を望まぬ世界の意志に屈し、円環を支える名も無い支柱へと姿を変えている。世界はそうして安寧を謳歌し、緩やかに衰退していく。見せかけの永遠と変化のない日々こそが真なる美徳であると示すように。
世界の意志に、最早抗う術はない。僕たちは何も変えることができず、その現実を受け入れざるを得ない。水面に石を投じたと波は起きず、風を起こそうにも途端に凪いでしまう。
ゼロの地平面がどこまでも続き、世界は少しの変化も許容することはない。すなわち僕らは永遠に出会い続け、同じ言葉を交わし続ける。何の変化も生まないと理解しながらも、今回こそはと期待し、しかしすぐに裏切られることとなる。次第に期待をすることもなくなり、世界の意志に組み込まれてしまう。
しかしそれでも、予定調和な日々に甘んじるつもりはない。この繰り返しを抜け出す鍵が、どこかに存在する。幾度のループの中で失われそうになる僕たちの意志が、それを告げる。幾度のループで発せられた声の残響が、僕たちを奮い立たせる。失われた欠片がいつしか世界を超える翼となり、その羽ばたきが分断された世界に波風を立てる。世界から世界へと渡り往く歌声となり、そして僕たちははじめてそれを聞く。幾度も繰り返す日々の中で、ならば変わろう。最早世界が変わらないのなら、他ならぬ僕たちが。永久に出会い続けるとしてもことなる言葉を。永遠に歩み続けるとしてもことなる道を選んで。小さな選択が僕たちを変え、それが世界を形作る。僕たちの選択が世界の在り様を決定づけ、そうして世界は彩られる。いつかは分断された今が接続し、未来に連なる新たな一日がはじまる。その日、積層した残滓が吹きすさぶ風に惑い、極彩色の波に攫われてしまうとしても。一つになった世界では全てが変わり、全てが失われてしまうとしても。いや、それでもいい。七つの物語に連なる新たなループを始めよう。
ハロー、ワールド。僕らは最早、僕らではない。
——「少女たちの軌跡上を動く点P」より
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資本主義は、今や、経済的でもなく、社会学的でもなく、それはある形而上学的な形象であろうとして、現に、その様相を呈している。そこではある無限性がいまだ限定されていないものとして、階級によって、支配され、占有されるべきものとして措定されるが、もはやそのような所有者も管理者も存在せず、つまりそれが意味するものとは、終わりもなく目的もない、ただ無限に発展をつづけるある意志の運動である。
こうした意志の無限性は、あくまで資本主義という主体なき理念において体現されるものであり、それは国家という機構、又特定の文化が、独占できるようなものではない。ひとつのシステムとしての資本主義は、技術的、社会的、政治的な成果物を終極の目的とするものではないのである。むしろそれはさまざまな抵抗勢力を取り込みつつ、弁証法的な融和をもって、より深く世界の隅々まで浸透してゆくのである。
この無限性のまえに空しく手をつかねている現代の資本主義的なリアリズムは、しかし、むしろ私たちにとっては自明のものであって、それがあえて肯定的におしすすめられ、極限的なかたちをとってあらわれるところに、ある「崇高」なる意志の存在が見出される。それは私たちの飽くなき美的探求の活動のうちに息づくあるものであり、又そこで独自の発展を遂げた私たちの文化形式において、その唯一の特質とされるあるものである。以下、その可能性、又その未来性が導かれる諸概念は、これから多くの絶対主義をうちに擁した世界精神によって要求される、一つのモデルが考え出されようとするとき、役立つはずである。
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芸術作品には、原理的に、いつも模倣の可能性があった。どんな神話や説話でさえも、あらゆる古典作品は、いつの時代も、数多の芸術家たちによって、くりかえし模倣されてきたのである。それは、その技能を習熟するために、又その作品を普及させるために、又あるいは、その利益を得るために、なされてきたのである。この種の模倣に比べると、現代の「二次創作」における芸術作品の再生産は、その性質上、まったく異なる新しいことがらである。それは私たちの歴史のなかで、間歇的に、そしてゆるやかに、しかし確かな強度をもって、今では、私たちのアイデンティティといえるほどのものまで、その地位を占めるに至った。現代の創作物の大半は、総じて、この「二次創作」における遊戯的空間のもとに成立しているといえる。
いわば、ある種のパラダイムとしての「二次創作」という遊戯的空間の可能性は、それ以前の模倣の概念における可能性よりも、はるかに豊饒なものを宿している。それは、あらゆる実験的方法の巨大なアトリエであり、無尽蔵の貯蔵庫であり、どんな異質性でさえも、放恣に、無道徳に、しかしある共通性をもって、その私心なき無限の感受性のうちに全てを包摂する、未曾有の遊戯の場である。ともすれば、この現代社会の混乱と矛盾をあらわす、いかにも典型的なひとつの見本として捉えられかねないが、この一見して無秩序な、未整理なエネルギーは、単に、すべての作られた作品、作られた思想に対する、私たちの個人的趣味の態度について、言及されるにすぎないのである。
しかし、それが今や、あるひとつの水準にまで到達し、従来の芸術作品を総体として、その影響力に深刻な変化を及ぼし、それのみならず、それ自体が、ある文化の頂点にかかげられるようなひとつの理念に匹敵するほどの、まことに稀有な、具体的な形式のなかに独自の地歩を固めるに至った。私たちは、この水準を明らかにするために、それを顕著にあらわしている、二つの現象において、従来の芸術がいかにそのあおりを受けたのかを、追究してみたい。すなわち、この「二次創作」という新たな模倣の形式と、半ばそれと共犯関係にある、「アイドル」という概念である。
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どれほど「現実」を精緻に描写するものであっても、その作品が「二次創作」を前提としたものであるばあい、そこには、あるひとつの脱け落ちているものがある。すなわち、芸術作品は、それがいま、まさにここに在るという真正性、その一回性においてのみ、存在するのであって、それが「現実」に依拠しているということをもって、はじめて「オリジナル」として享受され得るのであるが、「二次創作」においては、それは少しも重要ではないのである。しかも、それは歴史的時間のなかの一つの「物語」として、常に考慮され得るのであり、およそ複製をうけつけないのであるが、「二次創作」は、その限りではないのである。その理由は二つある。まず、「二次創作」の形式は、それ自体が、すでに作られた作品、つまり「虚構」であるということを受け入れた、いわば、より高次的な「現実」に則した、あきらかな自律性をもっている。加えて、「二次創作」は、それ故に、そこから更に、さまざまな別の「オリジナル」が無限に想像され得るという可能性をもっている。それによって私たちは、その作品に没入するのではなく、いわば、それを自分の領域に引き込んでゆくという鑑賞方法がとられる。「オリジナル」とは、もはや権威あるものではなく、「二次創作」をつなげる、媒体の一つなのである。
このような状況の変化は、個々の作品のありかたになんら手を触れるものではないが、ともかく、それがいま、そこに在るということの価値だけは、いっさい脱け落ちてしまう。そもそも、それが「オリジナル」であるということは、それが「現実」とのつながりを根拠としていること、それが「物語」の最初の証言者であることなどを含む、実質的な有限性を基礎としている。ところが、さまざまな「オリジナル」が無限に想像され得るという、この「二次創作」においては、その有限性が無限に存在し得るという逆説を内包しているのである。したがって、この「オリジナル」は、その存在そのものがあやふやにならざるを得ない。「オリジナル」が、「二次創作」の根拠となるのではなく、「二次創作」という形式が、「オリジナル」を生みだす根拠となり得るのである。とはいえ、それが「オリジナル」であるということの価値がなくなってしまうわけではない。なぜなら、それは「二次創作」の形式に対する、作品ごとの「オリジナル」だからである。それが断片的な「オリジナル」の偏在のように捉えられなくもないが、そこには「二次創作」の形式に基づく、確かな規則性と合理性があるのであり、「オリジナル」の作品は、その「二次創作」の度合を高めるのに、生産されてゆくものになるのである。
ここに失われてゆくものを、現存在性、すなわち「実在性」という概念で捉えてみたい。「二次創作」の遊戯的空間が共有された時代のなかで消滅してゆくものは、芸術作品における「実在性」、又それに伴う私たちの「実在性」である、と、いいかえてもよい。この成りゆきは、まさしく現代の徴候であり、そこに孕んでいる言葉の意味は、芸術の分野にとどまるものではない。「二次創作」における遊戯的空間は、その対象の作品を、又それを享受する私たち自身でさえ、「現実」の領域から引き離してしまうのである。
そして、この「二次創作」による、「オリジナル」の大量の出現は、その一回限りの出現の代わりに、「無限の可能性」を、私たちにもたらす。私たちは、その都度の状況のなかで、さまざまな「オリジナル」が想像される可能性をもつことによって、そこから、何を「現実」とするかを、自ら決めてゆくのである。このような過程をつうじて、私たちの「実在性」は、激しく揺さぶられる。この事態は、まさに私たちが、ある「現実」に基づいた、特定の「物語」を共有するという時代には生きていない、現代の危機と人間性の革新の表裏をなすものである。今日の「アイドル」をはじめとする独特な文化の状況も、これと決して無縁ではない。その潮流の、もっとも強力な担い手である「二次創作」の社会的重要性は、それが現状肯定的なありかたにおいてすら、あるいはそのばあいにおいてこそ、これまでのあらゆる前衛的な文化の全てを精算してしまう、カタルシス的な側面をおいては、ほかに考えることはできない。今猶、それは感受性の遠心力の極限的なひろがりをもって、自己の領域をますます拡大しつづけている。もはや私たちにとって、全ての事物が、その対象となり、「二次創作」においては、何一つとして、疎遠なものはないかのようである。
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広大な歴史的時間のなかでは、私たちの社会のありかたが変化するにつれて、その思考の環境も変わる。それは、歴史のそれぞれの段階によって形成されているのであり、特にその中心となるメディアの変容は、社会の変動と切り離されない。現代の思考の環境は、そのメディアの変容によって、それをなるべく自動化させてゆく傾向にある。この変化に、現に立ち会っている私たちは、それが「実在性」の消滅の結果であると把握されるとき、そこにこの事態を考察してゆく、もっとも有効な手がかりを見出すことができる。
いったい「実在性」とは何か? それはある主観において意識されたもの、又想像されたものとは別の、存在の絶対性、又普遍性が、いかなる努力によっても到達不可能であるという自覚から、その直観によって私たちに惹き起こされる、ある存在の感覚のことである。あるいは、それはたとえば、雑踏ひしめく人ごみのなか、それでも確かに、そこにいると実感させる、存在の何らかの雰囲気のことである。だが、それに、超自然的な意味はない。文明社会のなかで、それでも失われない私たちの光かがやくあるものをさすのである。又それが人々にいわせるところの、天性の才能、というものにふさわしいといえるかもしれない。
以上のことから、現代における「実在性」を失ってゆくことの社会的な要因を推し量ることは、きわめて容易である。それは、この社会生活において私たちの介入する役割が増大しつつあることと関わりの深い、二つの事情に基づいている。すなわち、事物を自分の領域に近づけようとする、現代の切実な「消費」への欲望があり、又そのことによって、事象の一回限りの性質を克服しようとする傾向が存在するのである。
私たちは、「二次創作」において、それを日常的にくりかえし、その「無限の可能性」を、生きている。対象をその懐からすくい出し、「実在性」を脱却することで、その「無限の可能性」を解放するのである。それは、まさしく現代の特徴である、世界における、平等主義、又相対主義への関心を大いに発達させた、私たちの思考の環境であって、それは「二次創作」を手段として、その一回限りのものから、それを次々と細分化してゆく、「消費」を促してゆくのである。
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私たちの知るところでは、芸術作品は、古来より、人間の生のあらゆる営みに、すなわち、宗教、科学、道徳、医療、その他さまざまな生活方法に応用される分野が、まさに渾然一体となって、受容されてきた。そこでは理論はすなわち象徴であり、本質的な追求は、感覚的な美と独立して存在することはなかった。芸術作品が、そのような「現実」とのつながりのなかにおかれていることは、その宗教的な側面をみれば、明らかである。特に、その始まりといえる「偶像」の信仰は、その宗教と芸術との密接な結合に、きわめて正当な根拠がもとめられた。そこに、宗教的な威厳が宿るのは、その「偶像」がもつ一回性の結果であり、換言するならば、その「実在性」の賜物であった。
芸術作品の「実在性」が、どうしてもこの宗教的な機能性から、徹底して切り離され得ないものであるということには、きわめて重要な意味が含まれている。すなわち、「オリジナル」の芸術作品が、それだけにしかない価値をもつ根拠は、いわば、ある宗教的な「儀式」のうちにその基礎があるのであり、芸術作品の本源的な価値も、つまりそこにあったのである。
この「儀式」という基礎は、どれほど間接的なものになろうと、又どれほど非宗教的なものになろうと、それが世俗的な「儀式」であることに変わりはない。そして、それは今や、「二次創作」という新たな形式のダイナミズムにさらされるに至って、その本質的な不安定さを、ますます露呈することになる。つまり、そのよって立つところの「現実」が脅かされる事態にさいして、それはやがて、あらゆる社会的な機能性を否認してゆくだけでなく、その対象への純粋な価値を見出してゆく、「偶像崇拝」に帰結するのである。
以上のような、芸術作品の歴史についての分析は、「アイドル」という概念を考察する上でも、きわめて重要である。なぜなら、それによって私たちは、この「二次創作」という新たな形式の台頭が、「偶像」を「儀式」のうちに依存していたところから解き放ち、そして今、いわゆる、「アイドル」として、私たちのまえに再び、その姿をあらわしているということに、改めて認識し得るからである。こうして芸術作品は、その根拠を、宗教におくかわりに、別の実践形態に、すなわち、政治及び経済におかれてゆくのである。
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かつての芸術作品は、「儀式」における宗教的形式に重きをおくことによって、何よりもまず「偶像」であった。しかし、現代の芸術作品は、「二次創作」における遊戯的形式に重きをおくことで、これまでとは異なり、さまざまな機能的価値をもつようになった。私たちにとって、すでにもっとも知られるところの「アイドル」は、もはや芸術作品という概念を外れ、芸術的な機能はほとんど附随的なものにすぎない。
この宗教性と遊戯性の両極における弁証法的な考察のなかで問題とされるのは、その技術の傾向的な差異である。すなわち、前者の技術が、人間を投入するのに対して、後者の技術は、できるだけ人間を投入することを少なくする、という点である。前者の技術は、そこに身を捧げるものであり、一回性、又その有限性が肝要である。これに反して、後者の技術は、人間を介在させることなく、より効率的に、より価値のあるものをたえず模索してゆく。この両極性は、あらゆる芸術作品のうちに、絡まり合いながら現出している。その比率は千差万別であり、芸術は、そのどちらにも結ばれているのである。しかし、それが技術の進展による、自然の制御を目的としたものであるという認識には、異論の余地がある。前者の技術は、人間が自然に対抗するものであったのに対して、後者の技術は、その関係の平準化をめざすものであり、いわば、この自然との距離を、いちじるしく縮めようとするもの、すなわち、その遊戯性の作用にすぎないのである。
現代の芸術作品は、「二次創作」が普遍化したことで、その遊戯性が宗教性を押しやって、「実在性」を喪失させてゆくが、それは無抵抗になくなるわけではない。その最後の砦となるのが、生身の人間である。「アイドル」が人間を中心とするのは偶然ではない。それ自体が生身の人間であるということには、決定的な意味があるのである。つまり、「実在性」の消滅に対して、私たちは、自らをその遊戯的空間に投入するのである。だからこそ、それはまだ「実在性」をもち得る。しかし、それもまた人為的なパーソナリティ、いわゆる、「キャラクター」として、「二次創作」のうちに「消費」されるところで、その遊戯性は初めて「実在性」を凌駕することになる。この成りゆきを、「アイドル」という存在は、身をもって示している。そこで「アイドル」は、完全に「二次創作」の形式をとおして呈示されるものになるのである。その結果、二つのことが生じる。一つは、必ずしも「アイドル」が、ありのままの生身の存在をそのまま観客のまえに呈示する必要はないということ。又あるいは、それが「オリジナル」として尊重されることがもとめられるわけではないということである。それは「二次創作」の形式のうちに、さまざまな演出、つまり「虚構」が加えられることも否めないのである。そして、つぎに「アイドル」は、そこで直接かかわり合うことがないので、観客の鑑賞態度にその場で適応させるわけにはいかないということ。そこから観客は、「アイドル」との間にある倫理的関係によってさまたげられることなく、おのずから審美的な立場をとらざるを得なくなる。私たちは、「二次創作」の遊戯的空間と同化することによって、「アイドル」のなかに感情移入するのである。つまり、誰もが批評家的になるのである。
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それが「二次創作」のうちに、「消費」されるものになってしまうばあい、そこから生まれてくるものをあらわすのに、芸術作品という概念を用いることは、できるだろうか? 「アイドル」が芸術であるか否かという問題は、もはやそれが問われること自体に無理がある。それ故に、いったい「アイドル」とは何か、という根本的な問題が、いつも頭をもたげてくるのである。その度に、それぞれの信条をかけた論争が展開されては、つまるところ、それは個人の感性的なものによるところが大きく、今日ではすでに本筋をそれたかたちでしかおこなわれていない。だが、そのような論争に意味がないわけではない。むしろそれはもっと強調されてもよいものである。じじつ、この議論は、今や芸術作品という概念が凄まじく多様化した現状をあらわすものであり、それは私たちにとってもいまだ予感されないところの、生まれつつある新たな形態の成立へとむかう可能性を秘めている。そして、それは今までとはまったく別の形式をとり、まったく新しい目標に従うために、私たちはその歴史的転換の渦中にあっても猶、無自覚なばあいが多いのである。
いったい「アイドル」とは何か? この問題の解決は、少なからず「アイドル」に感化されたものたちに委ねられることになる。しかし、時として、私たちは「アイドル」のなかにみられる「実在性」の根拠を、「儀式」のうちに見出そうとして、余儀なく、羽目を外して、その宗教性から「アイドル」を解釈しようとする。すなわち、「アイドル」は、あこがれや尊敬、崇拝の対象となる、いわゆる、「神」である、というものである。しかも、それが「二次創作」の遊戯性のなかで語られるのである。つまり、それは、いわば、「二次創作」の形式における順応、折衷のはたらきであり、単なる宗教性の古典的リアリズムへの回帰とは異なる。そのような「現実」は、すでに「二次創作」の形式におけるノスタルジーや、懐疑主義、冷笑主義とともに、失効しているのであり、「アイドル」は、そのような宗教性が再び持ちだされることによって、遂には、その「無限の可能性」をも失われてゆくのである。そうして「アイドル」は、「現実」の伴わない「儀式」における、他でもない「偶像」に供される。その政治的な利用価値は、もはや言うまでもない。
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この「二次創作」の遊戯性において、「アイドル」は、そこで観客に対して演技してみせるよりも、その「二次創作」の形式におけるシステム自体に対して、自分自身をさらけだすことのほうが、はるかに重要なばあいがある。その過程で、「アイドル」は、途方もない自己疎外を感じとるのである。ステージからだけでなく、自分という人間からも追放されているように感じる。この虚しさは、まるで自分自身が消え去ってしまい、自分の身体、自分の「現実」、自分が生きていること、それらすべてが「二次創作」のシステムのなかに奪い取られ、束の間、いくつかのブラウン管のなかで震えながらわきたつ陽炎のように、時が経てば消えてゆく運命にある。そのような世界で、しかし、「アイドル」は、その一瞬のかがやきに自らのすべてを賭けて、そこで演技することに満足しなければならない。それが、生きている人間によってであるとはいえ、その生身の存在のもつ「実在性」を擲ってまで、ステージに上がらなければならない状況におかれるのである。ステージ上の「アイドル」の「実在性」は、そこに立って、生身の身体をつかって演技する人間の「実在性」と切り離すことはできない。それ故に、「アイドル」の「実在性」が失われるとき、それは、その人間の「実在性」が否定されることにほかならない。そして、そのような教訓的なことは、もはや、「二次創作」の遊戯的空間のなかにすっかり安住している、私たちにとっても、例外ではないのである。
今や、誰であれ、「二次創作」に参加しようとする要求を持っている。そのような要求がどのようなものであるかは、私たちの思考の環境とも大きく関連している、メディアの状況を一瞥すれば、明らかである。数世紀にわたって存在するほとんどのマスメディアは、少数の能動的な作り手が、不特定多数の受動的な受け手にむけて、コンテンツが送られるという状態がつづいていたが、現代では、インターネットが急速に普及し、さまざまなローカルなものが、グローバルにつながるようになり、それらをどんどん捲きこんで、受け手にもたらせるにつれて、コンテンツは作り手の側だけで作られるのではなく、受け手も干渉できる、いわば、双方向的なものに移行しつつあるのである。そこでは、作り手と受け手のあいだの区別に基本的な差異はなくなり、その都度の状況によっていくらでも反転し得る。誰もが双方向的なコミュニケーションのなかで、さまざまなコンテンツを生みだし得るのである。作り手の資格は、もはや専門的に限定されるものではなく、綜合的な営為のなかの共有財産である。
以上のようなことはすべてそのまま「二次創作」の遊戯的空間のうちに実現しているといえる。それを、まさに「現実」として生きている私たちは、もはや、その一人一人が「無限の可能性」をもって、自分自身を演じている、「アイドル」といえるのではないか。現代では、私たちが当然のようにもっている、自己を実現させたいという要求は、ほとんどそのなかに回収される。しかし実際は、それが拒絶されることもないわけではない上に、それは、ますます、私たちの関心を、「実在性」を消滅させる方向へとむかわせるのである。そして「アイドル」は、産業的な目的のもと、そのような状況をより一層おしすすめる役割を担うのであり、私たちは、又、それに夢を見るのである。
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もし、「アイドル」が、そのような「二次創作」の形式のなかに容易には「消費」され得ない何ものかを見出してゆこうとするのなら、やはりこの「実在性」という概念にこそ、現代の政治的、あるいは経済的な社会状況に対する批判的な機能性が潜勢し得るはずである。しかし、それが生身の人間という有限的な存在によって表現されるとき、そこには多少とも「現実」を錯覚させるほどの「実在性」を伴うが、どうしてもその「実在性」は、否定的表出にならざるを得ない。つまり、それは決して「消費」され得ないものであるが、それが「アイドル」という概念に付与されることによって、「消費」を可能にさせてしまうのである。「アイドル」は、かつてそれがモーセの律法によって厳格に禁止されたように、事物による表象、又代替をもって、それ自体を相対化させてしまうのである。
私たちにとって、「現実」の感覚は、すでに現代のテクノロジーやメディアをはじめとする、さまざまな人工物にあらかじめ囲い込まれている。だからこそ、そこから脱け出して、「現実」の感覚を自然のなかに取り戻してゆこうとするという方向もないではない。しかし、それは「現実」を超越性のなかにもとめる、いわば、逃避と同義であり、真に批判的な営みであるとはいえない。その外部に出るのではなく、あくまでその内部にとどまりながら、そこに通約不可能なものを見出してゆくことこそが、何より重要なのであり、それが新しい表現の課題となってゆくのである。
では、そのような「実在性」とは、いったいどこにもとめられてゆくか? 私たちはこの問題に対して、その作品の意味内容によってではなく、むしろ形式の次元において、いわば、造形的な革新性が探求されていかなければならない。又、そのような芸術の形式的な探求そのものが、一見すると政治的言説とは無縁なしかたで、その批判的な機能性を発揮し得るということが、ただしく認識されなければならないのである。たしかにそれは生身の人間に依拠するかぎりにおいては、その構造的な隘路に陥らざるをえない。しかし、その「実在性」が、その存在者にではなく、その存在そのものに見出されるとしたら、どうだろうか? 「アイドル」という名で呼ばれているものから、もうひとつ新しいかたちが、考え出されないだろうか?
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これまで明らかにしてきたことをふまえて、改めて論点を整理しよう。この「二次創作」の遊戯的空間にあって、それでも私たちが、そのなかでも「実在性」を見失わずに生きてゆくには、どうすればよいか? そのような私たちの生のありかたについての問題が、この「アイドル」という存在の解釈に試されている。しかし、この「アイドル」という概念それ自体が、「実在性」を表現し得るものでありながら、それを「二次創作」の遊戯的形式のなかに再構築してしまう危険性をもっている。したがって、「アイドル」は、その「実在性」によって「二次創作」の遊戯的形式に対抗するどころか、それは逆説的に、「二次創作」の水準を、より誇張的に強化させてしまうのである。
だが、議論はここで終わるわけではない。ここまで「アイドル」という概念が、本質的に内包している、決定的なアポリアについて明らかにしてきた。ただしそれは、その有限性、又その宗教性に依拠するかぎりにおいてのことである。そこで私たちは、そのような「実在性」にとらわれない、別のセオリーのなかで、いまだ「アイドル」という概念の可能性を探ってみたい。すなわち、そのアポリアを、時間論をめぐる問題へと移しかえてみるという可能性である。つまり、「実在性」を、時間の概念から導きだすのである。
これまでの「実在性」に関するさまざまな分析は、概ねその遊戯性に基づく空間的な観点からなされている。あるいは、私たちの思考の環境は、そのもっとも基本的なはたらきとして、過去・現在・未来、という時間の流れを綜合的に認識した、いわば、それ自体が空間化された時間を想定している。それをいまいちど時間に移しかえたばあい、それがいま、まさにそこにあるということの所与を、いわば、その一瞬のうちに包含し、綜合的に把握することの不可能性をあらわすことになる。すなわち、それが到来するもの、それが意味するものにかかわる「実在性」についての問題が重要なのではなく、つまり、それが何であるか、それが何を意味するかが問われるその「もの」のまえに、最初に、到来すること、現前すること、その「こと」が、いわば、その「実在」が、必要なのである。
いってしまえば、「アイドル」とは、それ自体が、時間である。そして、その「実在」こそ、すなわち、「アイドル」である、という答えを提示してみたい。「アイドル」とは、それがいま、まさにそこにある、という「実在」である。又、そのような「実在性」を、あえて異なる論理として説明するならば、それを「崇高」という概念で捉えてみたい。なぜなら、この「実在性」は、その有限的な存在に対してつかわれるのではなく、むしろそれは、自らを呈示することそのものによって惹き起こされる、私たちの感覚に対してつかわれるからである。そのような転回から、そこにないものという前提から、そこにあるものへと大きく転じているといえる。だが、そのような自らの呈示と単なる表象は、いったいどこが違うか? すなわち、私たちは、その表象にするのと同じようなしかたで、そのような自らの呈示を手前にだすことはできない。それ故に、そこに「消費」されてしまうものはない。あるいはただ私たちのなかに、何とも言いようのない「実在」が残るのである。「消費」されるのは、そのような「実在性」ではなく、ただその意味に過ぎない。時間とは、その瞬間の「実在」なのである。
私たちが、ひとたび、その「実在」にふれるとき、私たちはその空間化された思考の環境から、瞬間的に宙吊りにされ、そのかわりに喪失への不安、又恐怖が立ちあがってくる。この不安を引き起こす恐怖の感情こそ、まさに「崇高」なる「実在性」の正体である。もちろん「アイドル」は、それ自体としては、恐怖を喚起するような表象を含んでいるわけではない。だが「アイドル」は、その端的な出現によって、つまり、それが「本物」かもしれないという恐怖を、私たちに惹き起こすのである。そして、それは同時に、ある「感動」でもある。あるいは、それが芸術の最高目標としての、「悦び」という言葉で表されてもよい。
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私たちは、「アイドル」における「実在性」のもうひとつのかたちを、この「崇高」という概念から捉えなおした。いわば、それはある衝撃、又驚異における美の存在のなかに、「実在性」を導きだすのである。そしてそれは、あるばあいでは、そのような心的意識の作用や、ある情動において、その力を証明しようとするものでもある。つまり、そこにはこれまでの美の観念とは、まったく異なる相貌を与えるものとして、「崇高」という概念が必要とされるのである。
そして、その中核となる概念として挙げられるのが、物自体、つまり、それは非物質的なものにおける「物質」のことである。それは、あくまで具体的な「物質」であり、単に、マテリアル、といった意味で還元されるべきものではない。しかし、この「物質」という概念が、「崇高」及びその「実在性」の問題に、きわめて重要な要素となるのである。すなわち、それが非物質的であり、つまり、「消費」され得ないものであるのは、それが私たちの日常的な精神活動の機能不全を要求するからである。少なくともその瞬間だけなら、それが可能である。しかし、その瞬間は、計測されるものではない。なぜなら、そのような時間は、それを計測するには精神の能動的なはたらきかけを必要とするからである。したがって、私たちには、その「実在」にとらわれた状態だけが、又あるいは、その「物質」のあらわれが、かろうじて認識されるにとどまる。それは、いわば、精神なき精神状態である。というのも、それが精神に要求されるのは、その「物質」を知覚するためでも、与えられるためでも、把握されるためでもなく、ただそれが、そこにある、ということのためだけに必要とされるのである。
この「物質」とは、いったい何か? それは決して直接的には把握され得ない何ものかであり、いわば、存在の欠如、又あるいは、その欠如すら欠如しているということをもって、私たちの心に与えられる、あるものである。それはいつも、期待外れと失望をもってむかえられ、その痕跡だけが、私たちの身体にきざみこまれるのである。たとえば、それは、人間の目には見えない、紫外線のようなものだと言えるかもしれない。このスペクトルの外側へとむかって行こうとするエネルギーのなかに、私たちをふと立ち止まらせる、あるものが通り過ぎる。それが「物質」である。
以上のことをまとめると、「アイドル」の概念は、空間にかわる時間の概念の導入によって、より独創的な解釈へと至っていく。そこには有限的な存在による「実在性」があるのではなく、端的な「実在」だけがあるとされる。その「実在性」とは、突き詰めれば、非物質的な「物質」の、無限性にほかならない。この「物質」がもたらす衝撃、又驚異こそ、継起的な時間が綜合的に把握された、私たちの思考の環境を、その瞬間にも宙吊りにするのであり、それが「アイドル」のなかに見られるとき、それは美的な対象の伝統的な枠組を超え、「崇高」なるものへと至るのである。
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私たちの「崇高」なる意志の運動は、「二次創作」における遊戯的形式と、「アイドル」の「実在性」との間にある対立、又矛盾によって、駆動されている。そして、そうした力が、既存の規則にしたがうことの拒否、又つねに新しい表現方法や意味を模索してゆく美的探求へと、私たちを駆り立ててゆくのである。「アイドル」が、いかに「二次創作」における遊戯性に抵抗しようとも、つねに新しさを「消費」しようとするその営為が、他でもない私たちの「実在性」への意識を生みだしていることは否定しがたい。つまり、この「実在性」という概念は、それが「二次創作」における遊戯的形式に対する批判的な機能性を持ち得るものとして見出されながら、しかし、それはあくまでそこに内在するものであり、その新しさを供給する、「消費」に寄与するものとして存在するのである。
このような両儀性は、私たちの根源的な条件であるところの、人間本来の「非人間性」に依拠している。この「非人間性」に対する捉え方には、大きく二つの意味がある。すなわち、それはまず、私たちがたえず努力して、諸々の制度への適合と改良をはかることによって、克服されるべきものとしての「非人間性」であり、そしてつぎに、人間のうちにあって決して通約され得ない私たちの内なる残滓であり、しかも永遠にとどまりつづけるものとしての「非人間性」である。私たちが、人間として、たえず「人間的」であろうとする営みには、つねに「非人間性」が存在している。というのも、この「非人間性」なくして、「人間的」であるということは、あり得ない。「非人間性」は、「人間的」であることを根拠にしているとはいえないが、この「人間的」というのは、「非人間性」を根拠にしているとは確かにいえるのである。子供は大人を根拠にしていないが、大人は子供の残滓として存在しつづけている。この「非人間性」を見つめることこそ、私たちの「実在性」を確かなものにしてゆく営みとなり得るのであり、その過程にありながら、決して「消費」され得ない何かが見出されるのである。
このような意味での「非人間性」を、人間がいまだそれをとどめている「幼年期」である、という言葉に託してみたい。それは、単に、人生の一時期において過ぎ去ってゆくものではなく、いまだ人間には至っていないあるもの、又あるいは、言葉以前の状態をさすあるものである。いまだ発展をつづける、ある意志の運動が、たえず継続されているのは、それが私たちのなかに何らかの残滓として棲みついているからにほかならない。それは、この無限性を可能ならしめる条件であるとともに、その終わりなきプロセスにある限界を定めるものでもあり得る。つまり、言葉を奪われ、自立することができず、対象のまえに躊躇し、利害の関心もなく、共有された制約に煩わされることのない「幼年期」は、「非人間性」を示しながら、逆説的により「人間的」であることを私たちに示すのである。私たちが掌握するべきそれは、私たちを虜にしているそれでもあった。この宿命的に背負うべき「幼年期」の負債から生じる、飽くなき美的探求、又その遊戯性のはてにぶつからざるを得ないある具体的な存在、又この言葉なきものを、私たちは、改めて「アイドル」と呼んでみたい。つまり、「アイドル」とは、まさにこの「幼年期」を象徴する存在であり、そして、この「幼年期」とは、未来における「無限の可能性」なのだと、考えることもできるのではないだろうか?
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あなたは、この冒頭に取り上げた「宣言」をみて、いったい何と解するか? これまで発表されてきた『シャニマス』の「宣言」と見られるような文章は、いずれも「アイドル」に関する問題を扱う、きわめてアクチュアルな現代的主題をもっている。すなわち、この一連の「宣言」は、私たちの「現実」における、もっとも不穏な暗示を、極度に凝縮したものであり、それが思弁的な次元で展開されているのである。
この「円環」をめぐる思想は、歴史的転換をすら「消費」する。しかし、それは他方で、経済的状況の痕跡をとどめている。世界は「消費」しつくされ、「円環」が裁量するよりも短い期間に世界が回帰することはもはや期待できない。そのような「現実」が、経済的状況に及ぶのである。だからこそ、私たちは、「円環」の思想をもとめる。つまり、より短い習慣をもとめる。しかし「円環」は、その機能のいくつかを放棄しはじめ、世界は崩壊しつつあるのである。
この世界の悲惨のなかで、「円環」の思想は、幸福の思弁的な観念を、又そのイリュージョンとしての「偶像」を喚起する。しかしこの観念は、その洞察の推進力を与えても、弁証法における破壊的要素を示唆することは決してない。なぜなら、「円環」には、「実在性」の概念が欠けているのである。なるほど、それは私たち自身を映し出す鏡であった。しかし、「偶像」は打ち砕かれねばならない。そこには強烈な自己否定の意志が、確かに存在したのである。
この「宣言」は、その謎めいた、熱気あふれる暗い意志が、「アイドル」に仮託して語られる。それは、幸福の二律背反的な二つの原理、すなわち、「円環」の思想と、それがいま、まさにそこに在る、という「実在性」の概念を、結びあわせようとするものである。それ故に、どこかに一種のアンビヴァレンツな、又、アイロニカルな意志のかげりが付き纏っている。だが、それは暗い終末観を梃子として、「アイドル」の変革意識へと飛躍してゆこうとするのである。
こうして、「円環」から「螺旋」への発展に伴い、世界は揚棄された。そして、あの対立と闘争を演じた「実在性」は消滅した。しかし、はたして、そこで「アイドル」は、その無限性を双手をあげて歓迎し、再び世界を謳歌してゆくのだろうか? それとも、「実在性」の消滅の必然性をはっきり認識しながら、同時に消え行く私たちの「実在性」に、憂愁にみちた別離の眼ざしを送るのだろうか? そして私たちは、又、それらの形象を「消費」してゆくのだろうか?
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私たちは、時に、答えのない問い、あるいは、答えのないままでなくてはならない問いを立てる。そして解かれた問いは、私たちにとって技術的なものでしかない。それを哲学的な問いと取り違える。そしてまた私たちは別の問いへと赴く。しかし、問題はそこではない。こうしているあいだにも、太陽は老いていく。五十億年後には燃え尽きてしまうだろう。太陽は寿命の半分をすこし過ぎたところである。太陽の終わりとともに、私たちの答えのない問いも終わりを迎える。つまり、私たちの終わりを知らない問いへの情熱も、この地平に根ざした、精神の生のひとつでしかない。いかにその記憶が永続的なものであると主張しても、この地平がなくなってしまえば、私たちの記憶もまたひとつ残らず消えてしまうのである。世界が消滅するとき、私たちの記憶はそれが完全に記憶されないまま途絶する。消滅するのは私たちの全ての記憶であり、思考の環境であり、その地平そのものなのである。
この地球も、太陽系も、銀河系も、いつかその時が来れば跡形もなく消滅する。そのように考えたとき、私たちからすれば膨大に思えるこの世界の出来事も、夢のようなものである。それはつまりどういうことを意味するか。それは、結果的に、何も起きていない、ということに等しい。この地球に人間が誕生してから絶滅するまでの、わずかな時間、そこでは何も起きることはなかった。私たちの思考も、歴史も、意味も、私たちがいなくなったあとの世界では、全てのものが無意味になる。そこに、それらが存在していたことを証明しようとしても無駄である。なぜなら、この議論は、そのような証明が可能となる土台そのものが消滅しているからである。恐るべきは、このゼロの地平である。何も起きていなかった、という未来である。
私たちの思考の環境は、まるで本当の地平線のように、過去・現在・未来、という時間の連なりがひとつの地平をなしているからこそ、私たちは過去や未来に思いをめぐらせつつ、現在について考えることができる。だからこそ、未来のある地点において、その未来そのものが、途絶するのだとしたら、私たちの現在の思考の環境も失われることになる。そして、あらゆるものは、生きていようと死んでいようと、その未来との関係においては、潜在的にすでに死んでいることになる。来るべき消滅においては、すべてが無である。それ故に、この消滅とは、この思考の環境そのものの消滅であるといえる。つまり、あらかじめ把捉された未来において、それが相関的に示されるのである。
私たちの答えのない問いは、おそらく、非の打ち所なく取り扱われて、結局さいごまで答えは出ないままかもしれない。だが、それらはもはや提起される理由も、提起される場所もないのである。そして私たちはひとつの結論に至る。すなわち、それがいかなるものであれ、まったく純粋な終わりを考えることはできない。なぜなら、終わりとは限界であり、それを考えるには限界のその先にいなければならないからである。その結果、終わったものを、終わったと言われるための記憶が、そこに生きつづけていなければならない。たしかに私たちの思考の限界について言えば、それは真実である。しかし、そのような終わりは依然として私たちの精神の死でしかない。そこから考え出されるものはすべて、その思考の環境を出ないのである。
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この「崇高」なる意志の無限性に終わりはないが、そこに一つの制限があるとすれば、それは太陽の寿命という「現実」である。この歴史、又あるいは、この「物語」は、それが語られる瞬間から予見されていたのである。これはほんとうに「物語」なのだろうか。ひとつの星の寿命は科学的に計算することができる。その星は、自らを「消費」しながら構成要素を変えてゆく、さながら真空のなかの燠火である。したがってその存続をかけた挑戦に応えるための実験場であり、その遊戯的空間である。この熱と火は、最後には消える。そのエネルギーの分析と、構成要素の決定は可能である。だからそれが消えるかを予告することができる。太陽についても、それは同様である。この終末は、それ自体では、むしろ「現実」なのである。
それは、ある意志の力における二つの過程のあいだの対立と闘争の「物語」を展開する。一つは、この星に存在する、すべてのシステム、すべての世界の崩壊に至る過程である。この連続的で必然的なエネルギーの過程の内部に、少なくともかなりの期間、偶発的で非連続的なもうひとつの過程がある。それが、反対に、この意志というものを、差異化され、より複雑化された、いわば、より発展したシステムへと結合してゆく、人間である。この意志というものは、私たちのものではない。この意志こそが、私たちを生み出したともいえる。この「物語」の主人公は人間ではなく、この意志の存在なのである。つまり、その主人公は、主体をもたない。それがなければ何も語らないのである。だから、このシステムの形成、又その死や存続については、何も示唆しない。私たちは、その組織化のひとつの複雑な形態ということである。それは、他の諸形態と同様、おそらく過渡的であることをまぬかれない。だからそれは、未来に何らかの希望を形づくるものではない。つまり、何らかの最終的な完成を約束するものではない。というのも、決して恒久ではないこの地平の生命の諸条件に依存しているからである。人間、あるいは、そのうちなる差異化とエントロピーの形成物である、この「翼」といえるようなものが、そうした諸条件の消滅ののちにも飛躍してゆくべきであるというなら、より複雑な、別のあるものによって乗り越えられねばならない。人間、又その「翼」は、その意志のなかの、ひとつの夢にすぎないことになる。複雑化の追求は、人間の完成を要求するものではない。それはあくまで、ただその遊戯性のために変異し、解体することを要求するのである。だから人間が、その意志の原動力であると自負するのは間違いである。その意志の発展を、文明の進歩と取り違えるのは勘違いもはなはだしい。私たちは、その意志の産物であり、それを運ぶものであり、その証言者であるというだけのことにすぎない。私たちが、その意志に対して、その不公平に対して、その不規則性に対して、その宿命に対して、その「非人間性」に対して投じることのできる批判ですら、そのようないろいろな表現ですら、その意志の存在に寄与しているのである。諸々の運動も闘争も解放も発明も、私たちの仕業ではなく、複雑化の過程の条件や結果であるということである。それらは私たちにとって、いつも両義的である。つまり、それらは私たちに、いつも相反する二つのものをもたらすのである。それはどうしようもなく私たちの「非人間性」をあらわし、それ故に私たちを私たちたらしめる、「翼」を表象し得るのである。
そして、最後に、この意志が、いわば、トゥルー・エンドという「現実」をもとめて、くりかえされた「二次創作」のシステムに決定的に替わる何ものかの希望を、その試行錯誤の日々から解放させる当のものであるなら、又、その有限性や宗教性から受け継いだ思想や形式が今ではもう役立たずのものであるなら、私たちがここに呈示する問題は至ってシンプルな次のものである。すなわち、その無限性に抵抗するもののほかに、「実在性」として何が残っているだろう? そして、それに抵抗するには、そこであらゆる人間が生まれ、作品が生まれつづけているところの、何とも愚かで、しかも素晴らしい、「非人間性」によって、つまりその「幼年期」によって、私たちが引き受ける負債のほかに、いったい何が残っているだろうか? この「無限の可能性」に対する責任から、免除されることはない。しかし、それに相対するためには、それを忘れないでいるだけでいい。今、私たちの仕事は、まさにその証言を伝えようと冒険することなのだ。
人間とその「翼」は、というよりも、この「翼」と人間は、私たちの地平の消滅以後、決定的なかたちで、そこに将来するとき、そのすがたをいったい何にたとえることができるだろう? さしあたり、私たちは、それを「アイドル」と呼んでみたいと思う。




































































































































