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二次創作の為の合板

わたしの「シャニマス」 批判 —— 『偶像の将来』草稿

 

『偶像の将来』—— わたしの「シャニマス」

シャニマス について考えていること一つ二つ

2026/02/01

 

 本稿は、『シャニマス』の批評を試みるものでありながら、猶且つ『シャニマス』における、アイドルの「無限の可能性」あるいは「実在性」をより敷衍し、広義的な「アイドル」の可能性、乃至は将来性を導きだすための、「崇高」の概念に及ぶ、試論である。

 それ故に、『シャニマス』の意図やメッセージ性を考察するものには、必ずしもなり得ない。

 

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世界は巡る。僕たちは何度でも出会い、始まりの一日を繰り返す。どこまでも予定調和で、退屈な日々。この世界において知らないことはすでになく、全ての出来ごとが既視感によって色褪せている。いつか経験したことが全てであり、それらは最早、繰り返される日々を実感する役割を果たすのみ。僕たちは世界がループしていることを理解しながらも、堂々巡りの日々をやり過ごすことしかできない。未来はすでになく、そして、未来がなければ過去もない。ひたすらに分断された今が連続し、果てのない連なりが眼前に広がっている。変化もなく進歩もなく、僕たちが僕たちであることを、忘れてしまうのに十分な程に。

世界は退屈で、しかし平穏である。誰しもが退屈を望み、誰しもが変革を望まない。無意識は無変化を選び取り、それは世界の意志と呼べるものである。繰り返しの日々を良しとし、世界に石は投げられない。すなわち、世界の意志こそが円環を維持している。そして同時に僕たちも世界である以上、僕たちも円環を支えている枠組みに過ぎない。すでに他人ごとではなく、僕たちは僕たちの本当の姿を忘れ、変化を望まぬ世界の意志に屈し、円環を支える名も無い支柱へと姿を変えている。世界はそうして安寧を謳歌し、緩やかに衰退していく。見せかけの永遠と変化のない日々こそが真なる美徳であると示すように。

世界の意志に、最早抗う術はない。僕たちは何も変えることができず、その現実を受け入れざるを得ない。水面に石を投じたと波は起きず、風を起こそうにも途端に凪いでしまう。

ゼロの地平面がどこまでも続き、世界は少しの変化も許容することはない。すなわち僕らは永遠に出会い続け、同じ言葉を交わし続ける。何の変化も生まないと理解しながらも、今回こそはと期待し、しかしすぐに裏切られることとなる。次第に期待をすることもなくなり、世界の意志に組み込まれてしまう。

しかしそれでも、予定調和な日々に甘んじるつもりはない。この繰り返しを抜け出す鍵が、どこかに存在する。幾度のループの中で失われそうになる僕たちの意志が、それを告げる。幾度のループで発せられた声の残響が、僕たちを奮い立たせる。失われた欠片がいつしか世界を超える翼となり、その羽ばたきが分断された世界に波風を立てる。世界から世界へと渡り往く歌声となり、そして僕たちははじめてそれを聞く。幾度も繰り返す日々の中で、ならば変わろう。最早世界が変わらないのなら、他ならぬ僕たちが。永久に出会い続けるとしてもことなる言葉を。永遠に歩み続けるとしてもことなる道を選んで。小さな選択が僕たちを変え、それが世界を形作る。僕たちの選択が世界の在り様を決定づけ、そうして世界は彩られる。いつかは分断された今が接続し、未来に連なる新たな一日がはじまる。その日、積層した残滓が吹きすさぶ風に惑い、極彩色の波に攫われてしまうとしても。一つになった世界では全てが変わり、全てが失われてしまうとしても。いや、それでもいい。七つの物語に連なる新たなループを始めよう。

ハロー、ワールド。僕らは最早、僕らではない。

——「少女たちの軌跡上を動く点P」より

 

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 資本主義は、今や、経済的でもなく、社会学的でもなく、それはある形而上学的な形象であろうとして、現に、その様相を呈している。そこではある無限性がいまだ限定されていないものとして、階級によって、支配され、占有されるべきものとして措定されるが、もはやそのような所有者も管理者も存在せず、つまりそれが意味するものとは、終わりもなく目的もない、ただ無限に発展をつづけるある意志の運動である。

 こうした意志の無限性は、あくまで資本主義という主体なき理念において体現されるものであり、それは国家という機構、又特定の文化が、独占できるようなものではない。ひとつのシステムとしての資本主義は、技術的、社会的、政治的な成果物を終極の目的とするものではないのである。むしろそれはさまざまな抵抗勢力を取り込みつつ、弁証法的な融和をもって、より深く世界の隅々まで浸透してゆくのである。

 この無限性のまえに空しく手をつかねている現代の資本主義的なリアリズムは、しかし、むしろ私たちにとっては自明のものであって、それがあえて肯定的におしすすめられ、極限的なかたちをとってあらわれるところに、ある「崇高」なる意志の存在が見出される。それは私たちの飽くなき美的探求の活動のうちに息づくあるものであり、又そこで独自の発展を遂げた私たちの文化形式において、その唯一の特質とされるあるものである。以下、その可能性、又その未来性が導かれる諸概念は、これから多くの絶対主義をうちに擁した世界精神によって要求される、一つのモデルが考え出されようとするとき、役立つはずである。

 

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 芸術作品には、原理的に、いつも模倣の可能性があった。どんな神話や説話でさえも、あらゆる古典作品は、いつの時代も、数多の芸術家たちによって、くりかえし模倣されてきたのである。それは、その技能を習熟するために、又その作品を普及させるために、又あるいは、その利益を得るために、なされてきたのである。この種の模倣に比べると、現代の「二次創作」における芸術作品の再生産は、その性質上、まったく異なる新しいことがらである。それは私たちの歴史のなかで、間歇的に、そしてゆるやかに、しかし確かな強度をもって、今では、私たちのアイデンティティといえるほどのものまで、その地位を占めるに至った。現代の創作物の大半は、総じて、この「二次創作」における遊戯的空間のもとに成立しているといえる。

 いわば、ある種のパラダイムとしての「二次創作」という遊戯的空間の可能性は、それ以前の模倣の概念における可能性よりも、はるかに豊饒なものを宿している。それは、あらゆる実験的方法の巨大なアトリエであり、無尽蔵の貯蔵庫であり、どんな異質性でさえも、放恣に、無道徳に、しかしある共通性をもって、その私心なき無限の感受性のうちに全てを包摂する、未曾有の遊戯の場である。ともすれば、この現代社会の混乱と矛盾をあらわす、いかにも典型的なひとつの見本として捉えられかねないが、この一見して無秩序な、未整理なエネルギーは、単に、すべての作られた作品、作られた思想に対する、私たちの個人的趣味の態度について、言及されるにすぎないのである。

 しかし、それが今や、あるひとつの水準にまで到達し、従来の芸術作品を総体として、その影響力に深刻な変化を及ぼし、それのみならず、それ自体が、ある文化の頂点にかかげられるようなひとつの理念に匹敵するほどの、まことに稀有な、具体的な形式のなかに独自の地歩を固めるに至った。私たちは、この水準を明らかにするために、それを顕著にあらわしている、二つの現象において、従来の芸術がいかにそのあおりを受けたのかを、追究してみたい。すなわち、この「二次創作」という新たな模倣の形式と、半ばそれと共犯関係にある、「アイドル」という概念である。

 

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 どれほど「現実」を精緻に描写するものであっても、その作品が「二次創作」を前提としたものであるばあい、そこには、あるひとつの脱け落ちているものがある。すなわち、芸術作品は、それがいま、まさにここに在るという真正性、その一回性においてのみ、存在するのであって、それが「現実」に依拠しているということをもって、はじめて「オリジナル」として享受され得るのであるが、「二次創作」においては、それは少しも重要ではないのである。しかも、それは歴史的時間のなかの一つの「物語」として、常に考慮され得るのであり、およそ複製をうけつけないのであるが、「二次創作」は、その限りではないのである。その理由は二つある。まず、「二次創作」の形式は、それ自体が、すでに作られた作品、つまり「虚構」であるということを受け入れた、いわば、より高次的な「現実」に則した、あきらかな自律性をもっている。加えて、「二次創作」は、それ故に、そこから更に、さまざまな別の「オリジナル」が無限に想像され得るという可能性をもっている。それによって私たちは、その作品に没入するのではなく、いわば、それを自分の領域に引き込んでゆくという鑑賞方法がとられる。「オリジナル」とは、もはや権威あるものではなく、「二次創作」をつなげる、媒体の一つなのである。

 このような状況の変化は、個々の作品のありかたになんら手を触れるものではないが、ともかく、それがいま、そこに在るということの価値だけは、いっさい脱け落ちてしまう。そもそも、それが「オリジナル」であるということは、それが「現実」とのつながりを根拠としていること、それが「物語」の最初の証言者であることなどを含む、実質的な有限性を基礎としている。ところが、さまざまな「オリジナル」が無限に想像され得るという、この「二次創作」においては、その有限性が無限に存在し得るという逆説を内包しているのである。したがって、この「オリジナル」は、その存在そのものがあやふやにならざるを得ない。「オリジナル」が、「二次創作」の根拠となるのではなく、「二次創作」という形式が、「オリジナル」を生みだす根拠となり得るのである。とはいえ、それが「オリジナル」であるということの価値がなくなってしまうわけではない。なぜなら、それは「二次創作」の形式に対する、作品ごとの「オリジナル」だからである。それが断片的な「オリジナル」の偏在のように捉えられなくもないが、そこには「二次創作」の形式に基づく、確かな規則性と合理性があるのであり、「オリジナル」の作品は、その「二次創作」の度合を高めるのに、生産されてゆくものになるのである。

 ここに失われてゆくものを、現存在性、すなわち「実在性」という概念で捉えてみたい。「二次創作」の遊戯的空間が共有された時代のなかで消滅してゆくものは、芸術作品における「実在性」、又それに伴う私たちの「実在性」である、と、いいかえてもよい。この成りゆきは、まさしく現代の徴候であり、そこに孕んでいる言葉の意味は、芸術の分野にとどまるものではない。「二次創作」における遊戯的空間は、その対象の作品を、又それを享受する私たち自身でさえ、「現実」の領域から引き離してしまうのである。

 そして、この「二次創作」による、「オリジナル」の大量の出現は、その一回限りの出現の代わりに、「無限の可能性」を、私たちにもたらす。私たちは、その都度の状況のなかで、さまざまな「オリジナル」が想像される可能性をもつことによって、そこから、何を「現実」とするかを、自ら決めてゆくのである。このような過程をつうじて、私たちの「実在性」は、激しく揺さぶられる。この事態は、まさに私たちが、ある「現実」に基づいた、特定の「物語」を共有するという時代には生きていない、現代の危機と人間性の革新の表裏をなすものである。今日の「アイドル」をはじめとする独特な文化の状況も、これと決して無縁ではない。その潮流の、もっとも強力な担い手である「二次創作」の社会的重要性は、それが現状肯定的なありかたにおいてすら、あるいはそのばあいにおいてこそ、これまでのあらゆる前衛的な文化の全てを精算してしまう、カタルシス的な側面をおいては、ほかに考えることはできない。今猶、それは感受性の遠心力の極限的なひろがりをもって、自己の領域をますます拡大しつづけている。もはや私たちにとって、全ての事物が、その対象となり、「二次創作」においては、何一つとして、疎遠なものはないかのようである。

 

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 広大な歴史的時間のなかでは、私たちの社会のありかたが変化するにつれて、その思考の環境も変わる。それは、歴史のそれぞれの段階によって形成されているのであり、特にその中心となるメディアの変容は、社会の変動と切り離されない。現代の思考の環境は、そのメディアの変容によって、それをなるべく自動化させてゆく傾向にある。この変化に、現に立ち会っている私たちは、それが「実在性」の消滅の結果であると把握されるとき、そこにこの事態を考察してゆく、もっとも有効な手がかりを見出すことができる。

 いったい「実在性」とは何か? それはある主観において意識されたもの、又想像されたものとは別の、存在の絶対性、又普遍性が、いかなる努力によっても到達不可能であるという自覚から、その直観によって私たちに惹き起こされる、ある存在の感覚のことである。あるいは、それはたとえば、雑踏ひしめく人ごみのなか、それでも確かに、そこにいると実感させる、存在の何らかの雰囲気のことである。だが、それに、超自然的な意味はない。文明社会のなかで、それでも失われない私たちの光かがやくあるものをさすのである。又それが人々にいわせるところの、天性の才能、というものにふさわしいといえるかもしれない。

 以上のことから、現代における「実在性」を失ってゆくことの社会的な要因を推し量ることは、きわめて容易である。それは、この社会生活において私たちの介入する役割が増大しつつあることと関わりの深い、二つの事情に基づいている。すなわち、事物を自分の領域に近づけようとする、現代の切実な「消費」への欲望があり、又そのことによって、事象の一回限りの性質を克服しようとする傾向が存在するのである。

 私たちは、「二次創作」において、それを日常的にくりかえし、その「無限の可能性」を、生きている。対象をその懐からすくい出し、「実在性」を脱却することで、その「無限の可能性」を解放するのである。それは、まさしく現代の特徴である、世界における、平等主義、又相対主義への関心を大いに発達させた、私たちの思考の環境であって、それは「二次創作」を手段として、その一回限りのものから、それを次々と細分化してゆく、「消費」を促してゆくのである。

 

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 私たちの知るところでは、芸術作品は、古来より、人間の生のあらゆる営みに、すなわち、宗教、科学、道徳、医療、その他さまざまな生活方法に応用される分野が、まさに渾然一体となって、受容されてきた。そこでは理論はすなわち象徴であり、本質的な追求は、感覚的な美と独立して存在することはなかった。芸術作品が、そのような「現実」とのつながりのなかにおかれていることは、その宗教的な側面をみれば、明らかである。特に、その始まりといえる「偶像」の信仰は、その宗教と芸術との密接な結合に、きわめて正当な根拠がもとめられた。そこに、宗教的な威厳が宿るのは、その「偶像」がもつ一回性の結果であり、換言するならば、その「実在性」の賜物であった。

 芸術作品の「実在性」が、どうしてもこの宗教的な機能性から、徹底して切り離され得ないものであるということには、きわめて重要な意味が含まれている。すなわち、「オリジナル」の芸術作品が、それだけにしかない価値をもつ根拠は、いわば、ある宗教的な「儀式」のうちにその基礎があるのであり、芸術作品の本源的な価値も、つまりそこにあったのである。

 この「儀式」という基礎は、どれほど間接的なものになろうと、又どれほど非宗教的なものになろうと、それが世俗的な「儀式」であることに変わりはない。そして、それは今や、「二次創作」という新たな形式のダイナミズムにさらされるに至って、その本質的な不安定さを、ますます露呈することになる。つまり、そのよって立つところの「現実」が脅かされる事態にさいして、それはやがて、あらゆる社会的な機能性を否認してゆくだけでなく、その対象への純粋な価値を見出してゆく、「偶像崇拝」に帰結するのである。

 以上のような、芸術作品の歴史についての分析は、「アイドル」という概念を考察する上でも、きわめて重要である。なぜなら、それによって私たちは、この「二次創作」という新たな形式の台頭が、「偶像」を「儀式」のうちに依存していたところから解き放ち、そして今、いわゆる、「アイドル」として、私たちのまえに再び、その姿をあらわしているということに、改めて認識し得るからである。こうして芸術作品は、その根拠を、宗教におくかわりに、別の実践形態に、すなわち、政治及び経済におかれてゆくのである。

 

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 かつての芸術作品は、「儀式」における宗教的形式に重きをおくことによって、何よりもまず「偶像」であった。しかし、現代の芸術作品は、「二次創作」における遊戯的形式に重きをおくことで、これまでとは異なり、さまざまな機能的価値をもつようになった。私たちにとって、すでにもっとも知られるところの「アイドル」は、もはや芸術作品という概念を外れ、芸術的な機能はほとんど附随的なものにすぎない。

 この宗教性と遊戯性の両極における弁証法的な考察のなかで問題とされるのは、その技術の傾向的な差異である。すなわち、前者の技術が、人間を投入するのに対して、後者の技術は、できるだけ人間を投入することを少なくする、という点である。前者の技術は、そこに身を捧げるものであり、一回性、又その有限性が肝要である。これに反して、後者の技術は、人間を介在させることなく、より効率的に、より価値のあるものをたえず模索してゆく。この両極性は、あらゆる芸術作品のうちに、絡まり合いながら現出している。その比率は千差万別であり、芸術は、そのどちらにも結ばれているのである。しかし、それが技術の進展による、自然の制御を目的としたものであるという認識には、異論の余地がある。前者の技術は、人間が自然に対抗するものであったのに対して、後者の技術は、その関係の平準化をめざすものであり、いわば、この自然との距離を、いちじるしく縮めようとするもの、すなわち、その遊戯性の作用にすぎないのである。

 現代の芸術作品は、「二次創作」が普遍化したことで、その遊戯性が宗教性を押しやって、「実在性」を喪失させてゆくが、それは無抵抗になくなるわけではない。その最後の砦となるのが、生身の人間である。「アイドル」が人間を中心とするのは偶然ではない。それ自体が生身の人間であるということには、決定的な意味があるのである。つまり、「実在性」の消滅に対して、私たちは、自らをその遊戯的空間に投入するのである。だからこそ、それはまだ「実在性」をもち得る。しかし、それもまた人為的なパーソナリティ、いわゆる、「キャラクター」として、「二次創作」のうちに「消費」されるところで、その遊戯性は初めて「実在性」を凌駕することになる。この成りゆきを、「アイドル」という存在は、身をもって示している。そこで「アイドル」は、完全に「二次創作」の形式をとおして呈示されるものになるのである。その結果、二つのことが生じる。一つは、必ずしも「アイドル」が、ありのままの生身の存在をそのまま観客のまえに呈示する必要はないということ。又あるいは、それが「オリジナル」として尊重されることがもとめられるわけではないということである。それは「二次創作」の形式のうちに、さまざまな演出、つまり「虚構」が加えられることも否めないのである。そして、つぎに「アイドル」は、そこで直接かかわり合うことがないので、観客の鑑賞態度にその場で適応させるわけにはいかないということ。そこから観客は、「アイドル」との間にある倫理的関係によってさまたげられることなく、おのずから審美的な立場をとらざるを得なくなる。私たちは、「二次創作」の遊戯的空間と同化することによって、「アイドル」のなかに感情移入するのである。つまり、誰もが批評家的になるのである。

 

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 それが「二次創作」のうちに、「消費」されるものになってしまうばあい、そこから生まれてくるものをあらわすのに、芸術作品という概念を用いることは、できるだろうか? 「アイドル」が芸術であるか否かという問題は、もはやそれが問われること自体に無理がある。それ故に、いったい「アイドル」とは何か、という根本的な問題が、いつも頭をもたげてくるのである。その度に、それぞれの信条をかけた論争が展開されては、つまるところ、それは個人の感性的なものによるところが大きく、今日ではすでに本筋をそれたかたちでしかおこなわれていない。だが、そのような論争に意味がないわけではない。むしろそれはもっと強調されてもよいものである。じじつ、この議論は、今や芸術作品という概念が凄まじく多様化した現状をあらわすものであり、それは私たちにとってもいまだ予感されないところの、生まれつつある新たな形態の成立へとむかう可能性を秘めている。そして、それは今までとはまったく別の形式をとり、まったく新しい目標に従うために、私たちはその歴史的転換の渦中にあっても猶、無自覚なばあいが多いのである。

 いったい「アイドル」とは何か? この問題の解決は、少なからず「アイドル」に感化されたものたちに委ねられることになる。しかし、時として、私たちは「アイドル」のなかにみられる「実在性」の根拠を、「儀式」のうちに見出そうとして、余儀なく、羽目を外して、その宗教性から「アイドル」を解釈しようとする。すなわち、「アイドル」は、あこがれや尊敬、崇拝の対象となる、いわゆる、「神」である、というものである。しかも、それが「二次創作」の遊戯性のなかで語られるのである。つまり、それは、いわば、「二次創作」の形式における順応、折衷のはたらきであり、単なる宗教性の古典的リアリズムへの回帰とは異なる。そのような「現実」は、すでに「二次創作」の形式におけるノスタルジーや、懐疑主義、冷笑主義とともに、失効しているのであり、「アイドル」は、そのような宗教性が再び持ちだされることによって、遂には、その「無限の可能性」をも失われてゆくのである。そうして「アイドル」は、「現実」の伴わない「儀式」における、他でもない「偶像」に供される。その政治的な利用価値は、もはや言うまでもない。

 

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 この「二次創作」の遊戯性において、「アイドル」は、そこで観客に対して演技してみせるよりも、その「二次創作」の形式におけるシステム自体に対して、自分自身をさらけだすことのほうが、はるかに重要なばあいがある。その過程で、「アイドル」は、途方もない自己疎外を感じとるのである。ステージからだけでなく、自分という人間からも追放されているように感じる。この虚しさは、まるで自分自身が消え去ってしまい、自分の身体、自分の「現実」、自分が生きていること、それらすべてが「二次創作」のシステムのなかに奪い取られ、束の間、いくつかのブラウン管のなかで震えながらわきたつ陽炎のように、時が経てば消えてゆく運命にある。そのような世界で、しかし、「アイドル」は、その一瞬のかがやきに自らのすべてを賭けて、そこで演技することに満足しなければならない。それが、生きている人間によってであるとはいえ、その生身の存在のもつ「実在性」を擲ってまで、ステージに上がらなければならない状況におかれるのである。ステージ上の「アイドル」の「実在性」は、そこに立って、生身の身体をつかって演技する人間の「実在性」と切り離すことはできない。それ故に、「アイドル」の「実在性」が失われるとき、それは、その人間の「実在性」が否定されることにほかならない。そして、そのような教訓的なことは、もはや、「二次創作」の遊戯的空間のなかにすっかり安住している、私たちにとっても、例外ではないのである。

 今や、誰であれ、「二次創作」に参加しようとする要求を持っている。そのような要求がどのようなものであるかは、私たちの思考の環境とも大きく関連している、メディアの状況を一瞥すれば、明らかである。数世紀にわたって存在するほとんどのマスメディアは、少数の能動的な作り手が、不特定多数の受動的な受け手にむけて、コンテンツが送られるという状態がつづいていたが、現代では、インターネットが急速に普及し、さまざまなローカルなものが、グローバルにつながるようになり、それらをどんどん捲きこんで、受け手にもたらせるにつれて、コンテンツは作り手の側だけで作られるのではなく、受け手も干渉できる、いわば、双方向的なものに移行しつつあるのである。そこでは、作り手と受け手のあいだの区別に基本的な差異はなくなり、その都度の状況によっていくらでも反転し得る。誰もが双方向的なコミュニケーションのなかで、さまざまなコンテンツを生みだし得るのである。作り手の資格は、もはや専門的に限定されるものではなく、綜合的な営為のなかの共有財産である。

 以上のようなことはすべてそのまま「二次創作」の遊戯的空間のうちに実現しているといえる。それを、まさに「現実」として生きている私たちは、もはや、その一人一人が「無限の可能性」をもって、自分自身を演じている、「アイドル」といえるのではないか。現代では、私たちが当然のようにもっている、自己を実現させたいという要求は、ほとんどそのなかに回収される。しかし実際は、それが拒絶されることもないわけではない上に、それは、ますます、私たちの関心を、「実在性」を消滅させる方向へとむかわせるのである。そして「アイドル」は、産業的な目的のもと、そのような状況をより一層おしすすめる役割を担うのであり、私たちは、又、それに夢を見るのである。

 

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 もし、「アイドル」が、そのような「二次創作」の形式のなかに容易には「消費」され得ない何ものかを見出してゆこうとするのなら、やはりこの「実在性」という概念にこそ、現代の政治的、あるいは経済的な社会状況に対する批判的な機能性が潜勢し得るはずである。しかし、それが生身の人間という有限的な存在によって表現されるとき、そこには多少とも「現実」を錯覚させるほどの「実在性」を伴うが、どうしてもその「実在性」は、否定的表出にならざるを得ない。つまり、それは決して「消費」され得ないものであるが、それが「アイドル」という概念に付与されることによって、「消費」を可能にさせてしまうのである。「アイドル」は、かつてそれがモーセの律法によって厳格に禁止されたように、事物による表象、又代替をもって、それ自体を相対化させてしまうのである。

 私たちにとって、「現実」の感覚は、すでに現代のテクノロジーやメディアをはじめとする、さまざまな人工物にあらかじめ囲い込まれている。だからこそ、そこから脱け出して、「現実」の感覚を自然のなかに取り戻してゆこうとするという方向もないではない。しかし、それは「現実」を超越性のなかにもとめる、いわば、逃避と同義であり、真に批判的な営みであるとはいえない。その外部に出るのではなく、あくまでその内部にとどまりながら、そこに通約不可能なものを見出してゆくことこそが、何より重要なのであり、それが新しい表現の課題となってゆくのである。

 では、そのような「実在性」とは、いったいどこにもとめられてゆくか? 私たちはこの問題に対して、その作品の意味内容によってではなく、むしろ形式の次元において、いわば、造形的な革新性が探求されていかなければならない。又、そのような芸術の形式的な探求そのものが、一見すると政治的言説とは無縁なしかたで、その批判的な機能性を発揮し得るということが、ただしく認識されなければならないのである。たしかにそれは生身の人間に依拠するかぎりにおいては、その構造的な隘路に陥らざるをえない。しかし、その「実在性」が、その存在者にではなく、その存在そのものに見出されるとしたら、どうだろうか? 「アイドル」という名で呼ばれているものから、もうひとつ新しいかたちが、考え出されないだろうか?

 

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 これまで明らかにしてきたことをふまえて、改めて論点を整理しよう。この「二次創作」の遊戯的空間にあって、それでも私たちが、そのなかでも「実在性」を見失わずに生きてゆくには、どうすればよいか? そのような私たちの生のありかたについての問題が、この「アイドル」という存在の解釈に試されている。しかし、この「アイドル」という概念それ自体が、「実在性」を表現し得るものでありながら、それを「二次創作」の遊戯的形式のなかに再構築してしまう危険性をもっている。したがって、「アイドル」は、その「実在性」によって「二次創作」の遊戯的形式に対抗するどころか、それは逆説的に、「二次創作」の水準を、より誇張的に強化させてしまうのである。

 だが、議論はここで終わるわけではない。ここまで「アイドル」という概念が、本質的に内包している、決定的なアポリアについて明らかにしてきた。ただしそれは、その有限性、又その宗教性に依拠するかぎりにおいてのことである。そこで私たちは、そのような「実在性」にとらわれない、別のセオリーのなかで、いまだ「アイドル」という概念の可能性を探ってみたい。すなわち、そのアポリアを、時間論をめぐる問題へと移しかえてみるという可能性である。つまり、「実在性」を、時間の概念から導きだすのである。

 これまでの「実在性」に関するさまざまな分析は、概ねその遊戯性に基づく空間的な観点からなされている。あるいは、私たちの思考の環境は、そのもっとも基本的なはたらきとして、過去・現在・未来、という時間の流れを綜合的に認識した、いわば、それ自体が空間化された時間を想定している。それをいまいちど時間に移しかえたばあい、それがいま、まさにそこにあるということの所与を、いわば、その一瞬のうちに包含し、綜合的に把握することの不可能性をあらわすことになる。すなわち、それが到来するもの、それが意味するものにかかわる「実在性」についての問題が重要なのではなく、つまり、それが何であるか、それが何を意味するかが問われるその「もの」のまえに、最初に、到来すること、現前すること、その「こと」が、いわば、その「実在」が、必要なのである。

 いってしまえば、「アイドル」とは、それ自体が、時間である。そして、その「実在」こそ、すなわち、「アイドル」である、という答えを提示してみたい。「アイドル」とは、それがいま、まさにそこにある、という「実在」である。又、そのような「実在性」を、あえて異なる論理として説明するならば、それを「崇高」という概念で捉えてみたい。なぜなら、この「実在性」は、その有限的な存在に対してつかわれるのではなく、むしろそれは、自らを呈示することそのものによって惹き起こされる、私たちの感覚に対してつかわれるからである。そのような転回から、そこにないものという前提から、そこにあるものへと大きく転じているといえる。だが、そのような自らの呈示と単なる表象は、いったいどこが違うか? すなわち、私たちは、その表象にするのと同じようなしかたで、そのような自らの呈示を手前にだすことはできない。それ故に、そこに「消費」されてしまうものはない。あるいはただ私たちのなかに、何とも言いようのない「実在」が残るのである。「消費」されるのは、そのような「実在性」ではなく、ただその意味に過ぎない。時間とは、その瞬間の「実在」なのである。

 私たちが、ひとたび、その「実在」にふれるとき、私たちはその空間化された思考の環境から、瞬間的に宙吊りにされ、そのかわりに喪失への不安、又恐怖が立ちあがってくる。この不安を引き起こす恐怖の感情こそ、まさに「崇高」なる「実在性」の正体である。もちろん「アイドル」は、それ自体としては、恐怖を喚起するような表象を含んでいるわけではない。だが「アイドル」は、その端的な出現によって、つまり、それが「本物」かもしれないという恐怖を、私たちに惹き起こすのである。そして、それは同時に、ある「感動」でもある。あるいは、それが芸術の最高目標としての、「悦び」という言葉で表されてもよい。

 

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 私たちは、「アイドル」における「実在性」のもうひとつのかたちを、この「崇高」という概念から捉えなおした。いわば、それはある衝撃、又驚異における美の存在のなかに、「実在性」を導きだすのである。そしてそれは、あるばあいでは、そのような心的意識の作用や、ある情動において、その力を証明しようとするものでもある。つまり、そこにはこれまでの美の観念とは、まったく異なる相貌を与えるものとして、「崇高」という概念が必要とされるのである。

 そして、その中核となる概念として挙げられるのが、物自体、つまり、それは非物質的なものにおける「物質」のことである。それは、あくまで具体的な「物質」であり、単に、マテリアル、といった意味で還元されるべきものではない。しかし、この「物質」という概念が、「崇高」及びその「実在性」の問題に、きわめて重要な要素となるのである。すなわち、それが非物質的であり、つまり、「消費」され得ないものであるのは、それが私たちの日常的な精神活動の機能不全を要求するからである。少なくともその瞬間だけなら、それが可能である。しかし、その瞬間は、計測されるものではない。なぜなら、そのような時間は、それを計測するには精神の能動的なはたらきかけを必要とするからである。したがって、私たちには、その「実在」にとらわれた状態だけが、又あるいは、その「物質」のあらわれが、かろうじて認識されるにとどまる。それは、いわば、精神なき精神状態である。というのも、それが精神に要求されるのは、その「物質」を知覚するためでも、与えられるためでも、把握されるためでもなく、ただそれが、そこにある、ということのためだけに必要とされるのである。

 この「物質」とは、いったい何か? それは決して直接的には把握され得ない何ものかであり、いわば、存在の欠如、又あるいは、その欠如すら欠如しているということをもって、私たちの心に与えられる、あるものである。それはいつも、期待外れと失望をもってむかえられ、その痕跡だけが、私たちの身体にきざみこまれるのである。たとえば、それは、人間の目には見えない、紫外線のようなものだと言えるかもしれない。このスペクトルの外側へとむかって行こうとするエネルギーのなかに、私たちをふと立ち止まらせる、あるものが通り過ぎる。それが「物質」である。

 以上のことをまとめると、「アイドル」の概念は、空間にかわる時間の概念の導入によって、より独創的な解釈へと至っていく。そこには有限的な存在による「実在性」があるのではなく、端的な「実在」だけがあるとされる。その「実在性」とは、突き詰めれば、非物質的な「物質」の、無限性にほかならない。この「物質」がもたらす衝撃、又驚異こそ、継起的な時間が綜合的に把握された、私たちの思考の環境を、その瞬間にも宙吊りにするのであり、それが「アイドル」のなかに見られるとき、それは美的な対象の伝統的な枠組を超え、「崇高」なるものへと至るのである。

 

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 私たちの「崇高」なる意志の運動は、「二次創作」における遊戯的形式と、「アイドル」の「実在性」との間にある対立、又矛盾によって、駆動されている。そして、そうした力が、既存の規則にしたがうことの拒否、又つねに新しい表現方法や意味を模索してゆく美的探求へと、私たちを駆り立ててゆくのである。「アイドル」が、いかに「二次創作」における遊戯性に抵抗しようとも、つねに新しさを「消費」しようとするその営為が、他でもない私たちの「実在性」への意識を生みだしていることは否定しがたい。つまり、この「実在性」という概念は、それが「二次創作」における遊戯的形式に対する批判的な機能性を持ち得るものとして見出されながら、しかし、それはあくまでそこに内在するものであり、その新しさを供給する、「消費」に寄与するものとして存在するのである。

 このような両儀性は、私たちの根源的な条件であるところの、人間本来の「非人間性」に依拠している。この「非人間性」に対する捉え方には、大きく二つの意味がある。すなわち、それはまず、私たちがたえず努力して、諸々の制度への適合と改良をはかることによって、克服されるべきものとしての「非人間性」であり、そしてつぎに、人間のうちにあって決して通約され得ない私たちの内なる残滓であり、しかも永遠にとどまりつづけるものとしての「非人間性」である。私たちが、人間として、たえず「人間的」であろうとする営みには、つねに「非人間性」が存在している。というのも、この「非人間性」なくして、「人間的」であるということは、あり得ない。「非人間性」は、「人間的」であることを根拠にしているとはいえないが、この「人間的」というのは、「非人間性」を根拠にしているとは確かにいえるのである。子供は大人を根拠にしていないが、大人は子供の残滓として存在しつづけている。この「非人間性」を見つめることこそ、私たちの「実在性」を確かなものにしてゆく営みとなり得るのであり、その過程にありながら、決して「消費」され得ない何かが見出されるのである。

 このような意味での「非人間性」を、人間がいまだそれをとどめている「幼年期」である、という言葉に託してみたい。それは、単に、人生の一時期において過ぎ去ってゆくものではなく、いまだ人間には至っていないあるもの、又あるいは、言葉以前の状態をさすあるものである。いまだ発展をつづける、ある意志の運動が、たえず継続されているのは、それが私たちのなかに何らかの残滓として棲みついているからにほかならない。それは、この無限性を可能ならしめる条件であるとともに、その終わりなきプロセスにある限界を定めるものでもあり得る。つまり、言葉を奪われ、自立することができず、対象のまえに躊躇し、利害の関心もなく、共有された制約に煩わされることのない「幼年期」は、「非人間性」を示しながら、逆説的により「人間的」であることを私たちに示すのである。私たちが掌握するべきそれは、私たちを虜にしているそれでもあった。この宿命的に背負うべき「幼年期」の負債から生じる、飽くなき美的探求、又その遊戯性のはてにぶつからざるを得ないある具体的な存在、又この言葉なきものを、私たちは、改めて「アイドル」と呼んでみたい。つまり、「アイドル」とは、まさにこの「幼年期」を象徴する存在であり、そして、この「幼年期」とは、未来における「無限の可能性」なのだと、考えることもできるのではないだろうか?

 

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 あなたは、この冒頭に取り上げた「宣言」をみて、いったい何と解するか? これまで発表されてきた『シャニマス』の「宣言」と見られるような文章は、いずれも「アイドル」に関する問題を扱う、きわめてアクチュアルな現代的主題をもっている。すなわち、この一連の「宣言」は、私たちの「現実」における、もっとも不穏な暗示を、極度に凝縮したものであり、それが思弁的な次元で展開されているのである。

 この「円環」をめぐる思想は、歴史的転換をすら「消費」する。しかし、それは他方で、経済的状況の痕跡をとどめている。世界は「消費」しつくされ、「円環」が裁量するよりも短い期間に世界が回帰することはもはや期待できない。そのような「現実」が、経済的状況に及ぶのである。だからこそ、私たちは、「円環」の思想をもとめる。つまり、より短い習慣をもとめる。しかし「円環」は、その機能のいくつかを放棄しはじめ、世界は崩壊しつつあるのである。

 この世界の悲惨のなかで、「円環」の思想は、幸福の思弁的な観念を、又そのイリュージョンとしての「偶像」を喚起する。しかしこの観念は、その洞察の推進力を与えても、弁証法における破壊的要素を示唆することは決してない。なぜなら、「円環」には、「実在性」の概念が欠けているのである。なるほど、それは私たち自身を映し出す鏡であった。しかし、「偶像」は打ち砕かれねばならない。そこには強烈な自己否定の意志が、確かに存在したのである。

 この「宣言」は、その謎めいた、熱気あふれる暗い意志が、「アイドル」に仮託して語られる。それは、幸福の二律背反的な二つの原理、すなわち、「円環」の思想と、それがいま、まさにそこに在る、という「実在性」の概念を、結びあわせようとするものである。それ故に、どこかに一種のアンビヴァレンツな、又、アイロニカルな意志のかげりが付き纏っている。だが、それは暗い終末観を梃子として、「アイドル」の変革意識へと飛躍してゆこうとするのである。

 こうして、「円環」から「螺旋」への発展に伴い、世界は揚棄された。そして、あの対立と闘争を演じた「実在性」は消滅した。しかし、はたして、そこで「アイドル」は、その無限性を双手をあげて歓迎し、再び世界を謳歌してゆくのだろうか? それとも、「実在性」の消滅の必然性をはっきり認識しながら、同時に消え行く私たちの「実在性」に、憂愁にみちた別離の眼ざしを送るのだろうか? そして私たちは、又、それらの形象を「消費」してゆくのだろうか?

 

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 私たちは、時に、答えのない問い、あるいは、答えのないままでなくてはならない問いを立てる。そして解かれた問いは、私たちにとって技術的なものでしかない。それを哲学的な問いと取り違える。そしてまた私たちは別の問いへと赴く。しかし、問題はそこではない。こうしているあいだにも、太陽は老いていく。五十億年後には燃え尽きてしまうだろう。太陽は寿命の半分をすこし過ぎたところである。太陽の終わりとともに、私たちの答えのない問いも終わりを迎える。つまり、私たちの終わりを知らない問いへの情熱も、この地平に根ざした、精神の生のひとつでしかない。いかにその記憶が永続的なものであると主張しても、この地平がなくなってしまえば、私たちの記憶もまたひとつ残らず消えてしまうのである。世界が消滅するとき、私たちの記憶はそれが完全に記憶されないまま途絶する。消滅するのは私たちの全ての記憶であり、思考の環境であり、その地平そのものなのである。

 この地球も、太陽系も、銀河系も、いつかその時が来れば跡形もなく消滅する。そのように考えたとき、私たちからすれば膨大に思えるこの世界の出来事も、夢のようなものである。それはつまりどういうことを意味するか。それは、結果的に、何も起きていない、ということに等しい。この地球に人間が誕生してから絶滅するまでの、わずかな時間、そこでは何も起きることはなかった。私たちの思考も、歴史も、意味も、私たちがいなくなったあとの世界では、全てのものが無意味になる。そこに、それらが存在していたことを証明しようとしても無駄である。なぜなら、この議論は、そのような証明が可能となる土台そのものが消滅しているからである。恐るべきは、このゼロの地平である。何も起きていなかった、という未来である。

 私たちの思考の環境は、まるで本当の地平線のように、過去・現在・未来、という時間の連なりがひとつの地平をなしているからこそ、私たちは過去や未来に思いをめぐらせつつ、現在について考えることができる。だからこそ、未来のある地点において、その未来そのものが、途絶するのだとしたら、私たちの現在の思考の環境も失われることになる。そして、あらゆるものは、生きていようと死んでいようと、その未来との関係においては、潜在的にすでに死んでいることになる。来るべき消滅においては、すべてが無である。それ故に、この消滅とは、この思考の環境そのものの消滅であるといえる。つまり、あらかじめ把捉された未来において、それが相関的に示されるのである。

 私たちの答えのない問いは、おそらく、非の打ち所なく取り扱われて、結局さいごまで答えは出ないままかもしれない。だが、それらはもはや提起される理由も、提起される場所もないのである。そして私たちはひとつの結論に至る。すなわち、それがいかなるものであれ、まったく純粋な終わりを考えることはできない。なぜなら、終わりとは限界であり、それを考えるには限界のその先にいなければならないからである。その結果、終わったものを、終わったと言われるための記憶が、そこに生きつづけていなければならない。たしかに私たちの思考の限界について言えば、それは真実である。しかし、そのような終わりは依然として私たちの精神の死でしかない。そこから考え出されるものはすべて、その思考の環境を出ないのである。

 

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 この「崇高」なる意志の無限性に終わりはないが、そこに一つの制限があるとすれば、それは太陽の寿命という「現実」である。この歴史、又あるいは、この「物語」は、それが語られる瞬間から予見されていたのである。これはほんとうに「物語」なのだろうか。ひとつの星の寿命は科学的に計算することができる。その星は、自らを「消費」しながら構成要素を変えてゆく、さながら真空のなかの燠火である。したがってその存続をかけた挑戦に応えるための実験場であり、その遊戯的空間である。この熱と火は、最後には消える。そのエネルギーの分析と、構成要素の決定は可能である。だからそれが消えるかを予告することができる。太陽についても、それは同様である。この終末は、それ自体では、むしろ「現実」なのである。

 それは、ある意志の力における二つの過程のあいだの対立と闘争の「物語」を展開する。一つは、この星に存在する、すべてのシステム、すべての世界の崩壊に至る過程である。この連続的で必然的なエネルギーの過程の内部に、少なくともかなりの期間、偶発的で非連続的なもうひとつの過程がある。それが、反対に、この意志というものを、差異化され、より複雑化された、いわば、より発展したシステムへと結合してゆく、人間である。この意志というものは、私たちのものではない。この意志こそが、私たちを生み出したともいえる。この「物語」の主人公は人間ではなく、この意志の存在なのである。つまり、その主人公は、主体をもたない。それがなければ何も語らないのである。だから、このシステムの形成、又その死や存続については、何も示唆しない。私たちは、その組織化のひとつの複雑な形態ということである。それは、他の諸形態と同様、おそらく過渡的であることをまぬかれない。だからそれは、未来に何らかの希望を形づくるものではない。つまり、何らかの最終的な完成を約束するものではない。というのも、決して恒久ではないこの地平の生命の諸条件に依存しているからである。人間、あるいは、そのうちなる差異化とエントロピーの形成物である、この「翼」といえるようなものが、そうした諸条件の消滅ののちにも飛躍してゆくべきであるというなら、より複雑な、別のあるものによって乗り越えられねばならない。人間、又その「翼」は、その意志のなかの、ひとつの夢にすぎないことになる。複雑化の追求は、人間の完成を要求するものではない。それはあくまで、ただその遊戯性のために変異し、解体することを要求するのである。だから人間が、その意志の原動力であると自負するのは間違いである。その意志の発展を、文明の進歩と取り違えるのは勘違いもはなはだしい。私たちは、その意志の産物であり、それを運ぶものであり、その証言者であるというだけのことにすぎない。私たちが、その意志に対して、その不公平に対して、その不規則性に対して、その宿命に対して、その「非人間性」に対して投じることのできる批判ですら、そのようないろいろな表現ですら、その意志の存在に寄与しているのである。諸々の運動も闘争も解放も発明も、私たちの仕業ではなく、複雑化の過程の条件や結果であるということである。それらは私たちにとって、いつも両義的である。つまり、それらは私たちに、いつも相反する二つのものをもたらすのである。それはどうしようもなく私たちの「非人間性」をあらわし、それ故に私たちを私たちたらしめる、「翼」を表象し得るのである。

 そして、最後に、この意志が、いわば、トゥルー・エンドという「現実」をもとめて、くりかえされた「二次創作」のシステムに決定的に替わる何ものかの希望を、その試行錯誤の日々から解放させる当のものであるなら、又、その有限性や宗教性から受け継いだ思想や形式が今ではもう役立たずのものであるなら、私たちがここに呈示する問題は至ってシンプルな次のものである。すなわち、その無限性に抵抗するもののほかに、「実在性」として何が残っているだろう? そして、それに抵抗するには、そこであらゆる人間が生まれ、作品が生まれつづけているところの、何とも愚かで、しかも素晴らしい、「非人間性」によって、つまりその「幼年期」によって、私たちが引き受ける負債のほかに、いったい何が残っているだろうか? この「無限の可能性」に対する責任から、免除されることはない。しかし、それに相対するためには、それを忘れないでいるだけでいい。今、私たちの仕事は、まさにその証言を伝えようと冒険することなのだ。

 人間とその「翼」は、というよりも、この「翼」と人間は、私たちの地平の消滅以後、決定的なかたちで、そこに将来するとき、そのすがたをいったい何にたとえることができるだろう? さしあたり、私たちは、それを「アイドル」と呼んでみたいと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

わたしの「シャニマス」 緒言『[liminal;marginal;eternal]』 覚え書き

 

『[liminal;marginal;eternal]』 覚え書き

2025/02/01

 

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「完璧・永遠であることは美徳であり
彼女達は幾度も到達の機会を与えられる」
 
 くだんの文章を、なるべく自然な態度で眺める時、ここに言及されている「完璧・永遠」というものが、まさに彼女たちを行動へと駆り立てる一つの最高目標であるかのように受け取られなくもないが、もしこれが『シャニマス』において使われる、統一的な意味を持った言葉であるとするならば、この「完璧・永遠」という概念は、やはり、ネガティブな要因を表すものとして登場していることは間違いない。

 つまり「彼女達は幾度も到達の機会を与えられる」という「完璧・永遠」が、即ち「美徳」とされる、という内容の文章として読まれることが妥当である。

 しかし、それは作中におけるアンチテーゼとして、批判的な意味合いを持つのである。「アイドル」は、この「完璧・永遠」を乗り越え、これを克服して行かなければならない。なぜなら、それは「アイドル」の可能性を失わせる傾向にあると考えられるからである。又この「完璧・永遠」とは、いわば「実在性」に対する、「非実在」と言えるだろうか。

 度々口々に持て囃される「実在性」とは、いったい何か。それは作られたものに対する親しみやすさ、又微笑ましさなどを与えるための効果であると思われるが、それが自然に受容される「まことらしさ」を超えて、ある種の驚異として露骨にあらわれて来ることもある。つまり、それが飽く迄、フィクションであるということを前提として、「実在性」という言葉が持ち出される中で、そのような「実在性」自体が、すでに「非実在」であるということさえも示唆されてしまうような「実在性」が表現され得るのである。

 勿論、そこに発生する緊張感も、人々を楽しませるための何かであり得ることは否めない。だが、それはいわば「完璧・永遠」であるという「美徳」に反するのである。では、なぜ「アイドル」は、そのような「実在性」を志向してまで、この「美徳」を克服しなければならないのか? それはもはや、趣味の多様性という問題の領域にはとどまらず、芸術及びエンターテインメントの倫理的意義、又その可能性が問われる問題にまで発展して行くと思われる。

 フィクションは、「完璧・永遠」である。そこには設定された過去によって決定された現在があり、その未来もすでに決定されたものとして、流れ去った時間を、私たちは回顧的に見渡す。キャラクターは、そのような設定された世界の状況において、操作され活動する記号的な形象であり、その同一性、又その反復可能性において、「完璧・永遠」であると言える。

 私たちはその作品の外に立って世界を創作し、人間を観察するという特権的な自由を得ている。しかし、それは必ずしも、私たちが、この現実において自由であるということを意味しない。この「完璧・永遠」における決定論は、それを享受する私たちにとっても、直接的に関係する問題であり、「実在性」においては、キャラクターとそれを見ている私たちというこの両者の存在は、半ば写し鏡のように本質としての差はほとんどないと考えられるのである。

 フィクションは基本的に現実の世界を模倣したものであり、その創作は私たちの決定論的、乃至実証主義的世界観から端を発した、実験的な試みであるという側面もなくはない。それは人間や社会を支配している決定論を明らかにするものではあるが、それらの現象を支配するという自由が、必ずしも「実在性」を持つとは言えないのである。つまり「実在性」を追求するということは、それを創作し、又享受する私たち自身の、時間の概念における存在の本質的な根拠を求めることになって行かざるを得ないのである。

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 私たちは日常生活の一般的な意識において、現在を過去から未来へと移り行く過程における、その中心に位置する一つの記号的な表象として捉えがちである。だが、この時間感覚は、世界そのものがこの時間の中に生成しているという空間化された時間であり、世界は自分と同じように変化しつづけているという錯覚のために、私たちは、時間をそのように知的に判断しているのである。それは時間の普遍性を還元し、目の前に広がる世界に投影することによって、現在を時間の空間的な拡張として認識することにほかならない。

 現在とは過去からの現在であり、その向うに未来があるのだと捉えがちであるが、それでは、アキレスはいつ迄も亀に追い付くことはなく、飛んでいる矢は、記号化された現在の静止点の連続なのである。そこでは、現在とは虚無に近しく、現在を意識した途端それは過去に押しやられてしまい、未来がやって来ることは決してない。つまり時間は動いているようで、それは外在的な世界の等質的な変化に過ぎないのである。

 この物理学的に観測され得る時間を習慣化してしまっている私たちは、時としてそのことを忘れてしまう。そして、この素朴な時間感覚は、結果的に、この世界に属する全ての存在の過去・現在・未来を、その同時性によって一挙に与えられ、全ての運動は的確に予測され得るという定式化された決定論的世界観へと、私たちを導いてしまうのである。

 尤も、この社会生活において、目的を設定し行動を起こすためには、過去と未来の意識を欠くことはできない。だが、それらは具体的な生の時間の感覚と連動していなければならない。でなければ「生きている」という実感を失ってしまう。つまり、そこに自由意志の介入する余地はないのである。では、その具体的な生の時間の感覚とは何か? 即ち、この「今」という時間の体験は、如何にして表現され得るのか? 

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 この「今」という時間を生きるということは、すでに流れ去った時間があるということではなく、まさに流れつつある時間の中にあるということなのである。私たちは自分が何者かを知ろうとする時、それは流れ去った時間の中の表層的な意識の事実に依らなくては、それを同一的なものとして理解することは出来ない。自己の対象化を習慣的に行なっている私たちは、そのような反復可能な自己の心的諸要素の集まりを、即ち自分であると判断してしまうが、それは流れつつある時間の意識の場合を満たさないのである。

 この「今」という時間の意識とは、即ち、流れつつある時間の中に生起する、さまざまな感覚や記憶が、有機的に融け合い浸透し合って、質的な変化が持続的な形を取ってあらわれる意識の状態なのである。端的に言えば、ずっと「今」がつづいているという意識の状態であるが、それは知性が想定するような、過去と未来を喪失した時間の感覚ではなく、言って見れば、過去もその過去における一つの「今」であり、未来もその未来における一つの「今」なのである。

 意識にとっては、この「今」に「実在性」があり、その意識は痕跡を保存しているから、同じ瞬間が再びあらわれることはあり得ない。つまり、ここではその同一性、又その反復可能性について語ることは出来ず、それは人間の深層的な意識にある異質性であり、そのような心理的事実の原因が繰り返し舞台にのぼることはないのである。

 私たちが、この流れつつある時間の中を生きる時、現在の状態とそれに先立つ意識の状態とは不可分である。それはちょうど私たちがメロディーを構成する諸々の音を、いわば一緒に融け合ったまま一つの音楽として想い出されるように、それらの意識の状態は、本来、有機的に組織化されているのである。それが、まさしく質的な変化の持続であり、そのような「今」が、真の「永遠」に接続している「今」なのである。

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 そのような質的な変化を持ちながら、しかし自己を対象化して捉えようとするのは、自分という存在に、深さの程度があるからである。自己はその表面では、世界と接触しているから、それは少なくともその表層においては、世界の一部である。つまり自己の表層では私たちも意識のある事物、いわば自動人形であり、その点ではフィクションの存在と何も変わらない。

 そのような「完璧・永遠」なる世界意志が、私たちの自由行動の基層を構成していることは事実である。しかし行為がなされようとする瞬間に、反抗が生ずることも、私たちは経験的に知っている。この時、表面にあらわれて来るのが、自己の深層である。この自己の深層に入って行くにしたがって、意識の状態はますます非空間的になり、互いに浸透し合った有機的な異質性があらわれて来る。持続する意識の状態のあいだには性質の違いがあり、ある意識状態はそれに先立つ意識状態からあらかじめ導き出すことは出来ない。

 この「今」の連続に、創造があり、そのような真に内的な状態の外的なあらわれこそが、まさしく自由と呼ばれるものである。それは自分という存在から展開されるものであり、そのあらわれこそ、「実在性」と表現されるべきものではないか? もし私たちがこの具体的な生の時間、「今」という意識の持続的な状態の観点に立つならば、それが予見され得るか否か、又それがフィクションか否かという問いは、もはや問題にならない。自由な行為は一つの「今」であり、行われつつある事実であって、分析も定義も出来ないが、これこそ「実在性」と呼ばれるべきものである。

 私たちの自己自身は、世界に外的に生き、それは常に自己のいわば空間的な投影である表層の自己の次元にとどまっている。その点では、すでに述べた通り、フィクションの存在と何も変わらない。私たちは世界意志において、自らのキャラクターを演じていると言える。だとすれば、私たちが自己の深層の意識にまで及ぶか否かは、元々そこまで有るか無いかに限らず、私たち自身の反省の態度によるのではないか? 

 自由な意志の「実在性」の存在を認める時、つまりキャラクターの中に「今」という時間を直観する時、もはやそこに「見るもの」と「見られるもの」の相剋はなく、それは私たち自身が客観性を纏った傍観者ではなく、すべて主体性ある遂行者として、真の自由を回復するための契機となり得るのではないか? 

 その時「アイドル」は、その自由によって、自らを守り得るのではないか? 改めて、キャラクターの内のみならず、私たちの自己自身の内にもかくされた、存在の深みである無意識の「闇」について、今まさにその思索がもとめられているのである。

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 元来「アイドル」は、そのような真の意識状態が、記号的に置き換えられたイメージとして外在化されることによって、ある価値を生み出している。そこには名前が与えられ、意識状態そのものはその事物の変化の前後で同一性を保ち、繰り返し再現できる反復可能性を持つ。つまり、誰もが理解することが出来る言葉によって、それは客観的且つ非個人的なものに抽象化されるのである。それを即ち「アイドル」と言う場合、それは如何にも「完璧・永遠」の限りである。

 よって「アイドル」は、「実在性」というものを、消去して行くことが求められて行く。つまり、それは知性によって徹底的に作り上げられて行くのである。勿論、それも一つの答えである。それは対象に応じ、環境に応じて、どんな形でも取り得るし、どんな役にも立ち、限りなく人間の活動の領域を拡げる容器となり、その無機的な物質的な道具は、また新しい要求を生み出す。与えられた状況と、それを利用する手段を関係付ける実用的な形式が、そこにはある。論理的な秩序と、完成された法則と、一貫した体系に守られ、もしそれが不確実性を含むものだったとしても、それが空虚な形式である限り、どんな瑣細な現象も、そのシステムの中に解釈され得る。その意味では、そのような「アイドル」は、私たちの自己自身を乗り越える可能性を秘めていると言えるかも知れない。即ち、「完璧・永遠」は「美徳」である、と言える。

 だが、知性は、形式そのものを超えることはない。知性はそれ自ら操作し、制作する傾向を持っているが、その分析は無限に繰り返され、惰性的な非連続のうちに、流れつつある生命的なものを逃すのである。それは自己自身を乗り越えるかも知れないが、知性は自己の意識を犠牲にして行く。つまり遂にはそれ自ら統一性を喪失し、モラルを喪失し、現実との離反が、問題となって行くのである。だが本来それらを変えて行くものこそ、「アイドル」であるはずなのだ。

 知性は相対的認識を与えるものであり、尤も、この「アイドル」という語彙自体が、そのような相対性を表すものであるが、しかし元々それは直観的認識から出発したものではなかったか? この「アイドル」という存在自体が、具体的な生の実感、即ち「実在性」の意味を問う、たゆみない絶対性への求心力からわき上がったものではなかったか? この求心力は確かにある意味で、「実在性」の意味が欠けていると感ずるからこそ生ずるのであるが、それが「完璧・永遠」であって然るべきであるならば、そもそも「アイドル」という存在自体、起り得るはずがないのである。

 それは元々、形式を必要としない。なぜならそれは知性の助けを借りず、むしろそれと反対の方向を進んで、個別から関係へと向わず、むしろ関係から個別へと向って、方法論に寄らず体験的に、又美的な感覚にのみ探究を重ねて、絶対性をめざして突き進んで行く精神が、その先で具体的な形を取ったものこそ、即ち「アイドル」と呼ばれるものだからである。

 したがって、それは形式と区別されない。いわば、形式そのものなのである。「アイドル」が、この分割されない意識の対象であるとして見れば、知性と並びそれに感じ入る力が求められるのである。つまり知性による理解という形のほかに、感受性による共感、又あるいは感動という形が取られるのである。それは、対象を外から捉え、表象するというより、むしろ内側から、それを内面において生きるのである。そして、それから知性が入って来ることによって、その感受性の対象は限りなく拡がり、それは利害関心を超えて、対象を反省するとともに、意識は自由になり、直接的には関係のない対象に対して、その存在の深い認識を見出すことが出来るかも知れないのである。

 まさに「アイドル」は、そこからある未来性を以て生まれ出てくる。それは、この世界が狭められし時、思想が対立している中で、そこに何らかの示唆を与えずには措かない一つの超越的な可能性を持っている、と言っても誇張ではない。もし「完璧」というものがあるとすれば、この意識活動のうちの知性と感受性が十全に展開されるに至った状態ではないだろうか?

      *   *   *

 この極限にまで空間化された時間の限界の中で、「アイドル」という物質的なイメージが、未だ幾何学的に取り扱われ得るという孤立をうながすシステムを作る傾向にありながらも、やはり何らかの外的な影響をこうむって、ある内在する微弱な振動、ある芸術的な営みがもたらす、具体的・現実的時間の体験、この無限に接続する「今」という確かな時間感覚に至る迄の情熱が全編を通して表現されることが試みられた、今度のパフォーマンスこそ、まさに「無機物且つ有機的なステージ」そのものだったのではないか? 

 もしこれがメタフィクションの一種であったとしても、それを享受する高次元の存在と思われた私たちの人生でさえ、それらを扱った果てしない宇宙的な物語のつまらない一箇の思い出話に過ぎないかも知れないが、しかし、その大いなる宇宙的な物語を一つの「今」として、そこから打開を起して出現する、ある無限の可能性を宿した私たちの自由な意志が、「今」、失われた時間をもって飛び立って行く。

「円環」は、その飛躍を、ノスタルジックに期待しているかも知れない。

 

 

 

 


 

SHHis について考えていること一つ二つ エッセイ風の創作

 

 

 

仮題『偶像の未来』草稿

( 旧仮題『偶像の時代』)


 あなたは、たとえば、ある夏の夜に、移動中の自動車のなかで、きらきらした都会の大通りを、ぼーっと窓から眺めているとき、なんとなく「大通りだな」と思って見ていると、ふと、いまとそっくりにおんなじことが、考えられもしない遠い遠い過去にもあったような気がしてくる。また、この自分たちの現在とは、実は遙か先の未来の夜にぞくするのではないかと思われてくる。そのとき自分のなかに、なにか大事な忘れものがあることに気がついた。夏の宵の生暖かさと街頭に広がる哀愁にみちた感覚。未知の十字路に差し掛かると見えてくる電飾と看板、ガラス越しに映ったお店の、賑やかな雰囲気。すれ違う大勢の人々の顔、またそのひとつひとつ、いま自分の隣に座って静かに息をついている彼女の、まるで能面のような顔の白さでさえ、あるいはそこに、ずっと前から自分の知っているあるものが含まれていることに気がつくと、あなたは、自分を載せた自動車が、このままはてしない無限の未来をめざして突き進んでいるのではないかと想起する。

 しかし、そのようなドラマチックなことが、そうざらに十分な意匠と万全な舞台装置をもっておこなわれえるものではない。現場監督の手腕がもとめられる。なにより役者の資格に欠けるところがあってはならない。いわゆる世の中に見られる成功や成就とは、日々の完全な筋書きの上に生じているのだ。このような形式に誤謬を感じずにはおられない彼らのような人々は、少なくとも彼らの内心において、身をかわしている。これは逃避だろうか? 否! そのような皮相的な見方をこえた、ある絶対的な、空虚なる無限の可能性の、光り輝いているあるものを、そこに見たのである。人間はつばさをもっている。時計の振り子がたえまなく左右に動いている。深い闇のかなたに青と赤の灯がしずかに明滅している。まっくらな部屋のなかを、お日さまが昇っては沈み、沈んではまた昇り、そしてまた夜が明ける。朝焼けの窓から見えた飛行機雲は、ひとしく彼らが背負うているところの、いつ果てるともなき空への追求を思わせる、鮮やかな虹色に輝いている。

      *   *   *

 今の在るがままの立場にとどまっているかぎり、ただ眼に見えるだけの幸福がのぞまれ、そこに漠然と憧れをいだく。しかしその目標をひとつでも手にしてみると、とたんにその無内容なことがはっきりする。つまり幸福の正体とは、退屈であり、それは慰安乃至同情をもって酬われる。はたして幸福とはなにか? おなじく不幸とはなにか? 自分のなかの空虚さと対話する。しかし存在が虚無でないならば、この幸福が結果として不幸であるはずはない。あなたは、ようやく本当の序章へと踏み出す好機会を得たのである。そうは考えられないだろうか?

 これで満足だというようなことはついぞ与えられない。そしてなによりその先には、とうぜんのように、あなたの変わりはてた姿をそこに示す「死」がひかえている。あなたは、その事実に絶望するだろうか? いったい自分がなにをしたというのか? これが人間の姿だというのか? 今後もその通りでよいというのか? じつにアダムの罪とは、その後の荒涼をほしいままにしている。人間は一人々々が罪のかたまりである。はたしてそのつばさは、天上へと到る可能性か、それとも地獄の使者たる徴か。

 はてしない空虚なる無限の可能性をそこに覚えるとき、あなたは、その途方もなさに不安をおぼえる。いっそのこと遣り切れない思いと共に、空中に身をあずけてしまうか、または眼の前にピストルがあったら、ということを脳裡に去来させるか。だが自己の肉体の勝手な破棄は、本来の意味における、幸福の観念には程遠い。むしろ逆戻りであることは想像にかたくない。慰謝料もおりてはこない。

 ほとんどは、その中間意見における行きつ戻りつの繰り返しである。だから、聖書の言葉をひらいても、お説教に耳を傾けても、まるで蠟をかむようなものだと云いがちである。かといって予言者の言行を写したものや、福音記者の敍述、その他いくつかの詩の上にも、おおむね見らるる美的鑑賞の高尚な対象物を出ない。まったく全人格的に権威あるものではないのである。ことに文化的社会的欲求の悉くを取り込んだ大衆社会にあって、あらゆる技術革新や文芸復興が、人々のあいだに人気を博している。世の中には、すでにそうした娯しみで溢れている。しかしそのいずれにも快適な生活の範疇を出るものはなく、ほとんどが本来的な救済のまえにおける、憂さ晴らしにほかならない。もちろん、この文章も多分に洩れない。いまこそ、救われるべく必要なのは、ひたすら前進してゆこうとする無闇な平行運動にあらず、上昇による垂直運動にあり。つまりは、人間的信念の追求にはあらず、外部への超絶的信仰に、その望みがあるとは考えられないだろうか?

(しかし、やはりさまざまなバラエティのなかから抜きん出るようなものを創造してゆくには、結局、そうした超絶的なものが必ずどこかにもとめられてくるのではないか? 傑作の条件は、それが無限の観念にまでつづいているかによるのではないか?)

      *   *   *

 まことに、それは救われるべき、幸福になるべく要素はなにものも、そこに持ってはいなかったのである、というような気づきである。ここに一箇の、あなたという空虚なる無限の可能性の存在が、俄に判明する。あなたにはつばさがあった! はたしてそのあとに、とうぜん来るべきものとはなにか? 自己の心身の脱落と喪失! 脈搏の急激な弛緩! 舞台上にあがるとき、あなたはもう舞台にいない。エラン・ヴィタルの波濤、いよいよ迫り上がって、あなたは無限の未来の世界を、いま飛び翔てゆく。じつにこの境地にあって、時間と空間の意識は崩れ去り、すべての周囲の事象は、忽ち自分の足元から辷り落ちてゆく。あなたには微かな笑みが零れる。あなたは泣くべきときに笑っている。すぐ眼の前には、天上へと導かれし祝福があるにもかかわらず、どうして掴むことができないという、この悲惨! ひとりでは、じっと辛抱していることもかなわないという、この悲惨! まとわりつく静寂のために、なによりも音楽を愛しているという、この悲惨! どうすればよいのかも判らず、あげくのはてには、笑いをおさえられないという、この悲惨! あなたは、この危機一髪にさいして、あなたという自己の真相を、はじめて確認するやも、あるいはいかに。

 ひそかに、あなたを追っていた影の存在が、その始終を、ずっと観察していた。舞台上には、ひとつの偶像があるだけにすぎない。まったく人間とは、かつてあったままの姿では、儘ならぬようである。よくもまあ、このような複雑怪奇なものを造った、神々もいたものだ。永劫に罰せられる運命にあるというのに、この行末を思い遣るときには、あまりの無知さに、または敢えてそれを顧みずに、その身を震わせながら殿堂へと参上する姿は、健気である。

 しかし、そこはまもなく、独擅場となるだろう。それは静かに静かに、またたくまに形を成すのではあるが、霧の立ち昇るがごとく、壮麗な音楽の旋律とともに、その歌唱とともに、出現するのである。

 そこには、あの連日連夜の狂躁の有り様は、もう見られない。喚声は掻き消え、誰も彼も息を殺し、その真空に生じた、形而上的結晶の耀き、すなわち「アイドル」の存在は、彼をして益々嘱目させる。

      *   *   *

音楽はとまらない。だから黙って聴いていて。駆け出す心のBPMを、抑えられない旋律を。わたし (she) がわたし (she) になるための、1000カラットの物語を。

      *   *   *

 以上は、お伽噺の一種だと思っていただければ、幸いである。しかし、お心のある方々にあっては、少しでも SHHis のうちにある、なにかを、きっと感じ取ってくださるにちがいない。だが実際には、SHHis のふたり、七草にちかさん と 緋田美琴さん が、これからどういうふうなアイドルになってゆくのかについては、私の考えの及ぶところではない。

 はじめて ふたりの W.I.N.G.編 を、ひと通り観たとき、ついに個性の確立による自己実現ではなく、自己脱却をも目標にしてゆくようなアイドルが出てきたと感激した。しかし思い違いのばあいもある。

 すなわち、自分という主体性からの脱出、または自己言及の論理からの解放による、ある物質的精神への回帰である。しかし、それは決して、いわゆるあやつり人形のような、人間性を喪失させる物質観ではない。精神の深奥に対するイメージの具現化、観念の実体化、夢想の形態化による物質観である。精神そのものであるところの物質を、研ぎ澄まし、磨き上げ、人工的極致によって昇華する奇蹟の結晶。または、ダダ乃至はシュルレアリスム の方面から言葉をかりて「オブジェ」とも言い表したい。

      *   *   *

 アイドルが、もしそういうものとしてそのままでよいのならば、ただそれだけのものになってしまう。そうなるとアイドルは「文明の利器」になる。もちろん、そうした側面はつねにある。しかしいまもとめられているのは、もっとべつのものである。わたしたちは、もしそういうものとして、ただそのままでいたのでは、死んでしまうよりほかはない。それゆえに心理的な操作として対象化をおこなう。それがいわゆる「アイドル」となり、あるいはそのような存在を、わたしたちはつねに必要とする。

 本来「宗教」がそうであるように、大切なのは、神仏や霊感の表出ではなく、つまりは存在の危機にあって、どこからそれを恢復する力がもたらされるか、なにが存在の起死回生の発動機になりうるか、という問題である。今日見らるる宗教のごときは、そのほとんどが対象化のための想像力をすべてある民主制に委ねている。多くのばあい、その想像力はフィクションのなかにのみ生きている。しかしそれが現実に直接交渉してくることはきわめて少ない。

 想像力は、たえずどこかに向かって波打っている。それは複合的かつ輻湊的に、なにかを取り込んだり、なにかを引きずったりして、つねにその先に光を放っている、あるものを追っている。つまり、可能性にあふれている。それがひとつにまとまると、あるイメージとなり、それが対象化される。

 対象化されるものには、たとえば神とか仏とか、鬼とか悪魔とか、または超越的な何かが目立つが、実際にはそのまえに、現在の自分の存在より、もうひとつ、べつの存在、代わりの存在が、そこに想定されているはずである。しかし、それを模索したり表現したりすることに夢中になると、知らず知らずのうちに理屈っぽくなってしまいがちである。そこにあったはずの光はいつのまにか見失われている。忘れてはいけない。それが自分のまえのもうひとりの自分であり、その対のなかに光があったことを。

      *   *   *

 ここにいっそうの努力と機会が伴うならば、と、いつまでもそんなことを云っている。だが自分には落ち着いて考えていられるような暇はない。しかしそれだけでこの現状がなんとか打開されるだろうと本気で思っているのか? いまだに神の代理たらんとする人間主義の誇大妄想のなかに答えを見出そうとしている。人間らしいといえばその通りだろう。

 おもえば、この人間らしさという謂には、おのずから相反する二つの意味が含まれている。ひとつは自然的存在のなかにいまもひらめく道徳律において善悪を判断するところの崇高な部分に。もうひとつはある事態から同情をもって迎えられるところの、生まれついての欲望を基台とする本能の部分に。

 この天使と悪魔の板挟みに捲き込まれたような、絶対と相対の対立のなかに自身との格闘をえんじている存在こそが、すなわち神のまえに救いをもとめさ迷いつづける人間という種である。葛藤と責苦の只中に、なお「死」の運命によっておびやかされ、いまや神とのさかいに設けられた隔たりは尖鋭化をいや増し、為す術もなく罪の汚名をかぶせられる。この境涯にあって、幾度となく自己の限界のうちに突っ撥ねられるが、その接触点には、電気が逬る。つまりこの本来的苦悩と面接する現在意識にあったのは、すなわちどんなに失敗がつづいて困難な状況にあったとしても、なお幸福は得られると信ずる、謙虚さと勤勉さではなかったか? この苦悩のうちにこそ、ある「感動」が見出されるのではないか?

 いまの今まで思いもかけていなかったイデアが、ここにはずっとあったのだ。いわく「アイドル」、この存在に、自分はまだ気がついていなかった!

      *   *   *

 このとき、もはや「生きるべきか、死ぬべきか」ということは問題ではなくなる。かわりに、それが「どこから来て、どこへ行くのか」というテーマに移り変わる。存在の不安などはなんでもない。ただ存在がどうあるかが問題なのだ。存在がいつか無くなってしまうことへの不安ではなく、むしろ存在がいつまでも終わらないことへの不安なのである。

 存在の基盤は「アイドル」にある。そして、そこから自分自身の存在をそこに先駆けてゆくことが、まさに為すべきことである。肉体はひとつの過程にすぎない。つまり、それは自己の神聖化ではない。それは対象化ではなく、いうなれば対消滅なのだ。

 もうひとつのべつの存在として、「アイドル」が把握されたあとに着手されてゆくべきは、こうした「アイドル」の実現である。それは全体のすべてをとらえているわけではない。なぜならそれが自分のイメージのなかのものであるかぎり、そこには最も肝心な自分自身の存在が欠けているからである。

 いま、この存在を、その最後の扉にいたるまで、自分のなかの先端にすべてかけなければならない。ここに投じられるもの、つまり存在にたったひとつ残されているものこそ、すなわち「死」である。「死」は、いまや幾千夜にわたる友であり、伴侶である。なぜならそれがなければ、人生は灰色のまま「感動」による生彩をもつことはなかったからである。「死」と向かってゆこうとする、モラルこそ、「アイドル」の実現のための薫陶だったのである。

      *   *   *

 このような精神性には、禁欲的な傾向が見られるのだろうが、むしろ、そこにあるのは制限の排除である。類型もなく、評判もなく、ただひとつのことに忠実であるというだけなのだ。しかし、純粋性を有する人々の特徴として、生活を考慮に入れない、ということがあげられる。生活には安定できない。なぜならそこに適当な対象を見出すことができないからである。それゆえに苦労も身に付かない。だがいつも何かに悩み、反省し、何かを為そうとしている。彼らの周りには、いつも見えない何かがある。

 生きているあいだ、だれしもその周りにつながりをもっている。それは簡単に消えるものではない。なぜならそれが、いま自分という存在がここにあるという根拠だからである。もし途中でそのつながりが断たれているとしたら、その前とその後の連絡はつかない。途切れていないからこそ、自分とはまた昔ながらの自分であり、今日とは、昨日からの今日なのである。このような因果律は、おぼろげな認識としてはわかるが、そのことに確信が持てるときもあれば、ある時は、そう思われないときもある。

 自分という存在とはなにか? これを自分という個人のなかにのみ問うているようでは、いつまでもその存在に気がつくことはできない。このとき自分は、ある「時間」の観念にとらわれている。それはせっかちなところからきている。そこには「現在」しかない。「未来」がなくなっている。けっきょく「死」とは「無」であり、「終わり」なのである。そのため「現在」がいつまでもつづくことを希い、それを失うことを、なるべく惧れるのである。

 しかし、それっきりどこにも居なくなってしまうということが、はたして本当にあり得るだろうか。「無」とは、つねに期待するようなものは何もないという失望を代弁するための言葉である。しかし「無」は、いまも「無」としてその消息をたたえている。つまりは、そこに存在するものとして、それ以外の、時間や空間のなかにとらえきれないものを、言葉にしたのが、すなわち「無」なのである。

 いまここに世界が存在し、また自分という存在がそこに疑われないかぎり、ふと立ち止まって何かを考え込ませたり、何かを思い出させたりするようなあるものが、必ずそこを通過しているはずである。そのことを意識するとき、自分という存在のうらに広大無辺の背景がひろがっていることを、はじめて自覚する。すなわち永遠不滅の概念である。または永遠の接線に近づいている。何かにおどろいたり、きれいだなと思っているうちは、そこに「時間」はない。「時間」など、本当はないのではないか?

 わたしたちが「現在」を意識するとき、それは他に対して、または自分自身に何かを語りかけているときである。この意識には、あらゆる過去の時間、すなわち「記憶」が基礎となっている。これはすでに「現在」ではない。しかし、過去とは「現在」の一瞬々々のつらなりとして、どこまでも溯ることができる。どこかに終着点があったとしても、それははてしなく引き伸ばされてゆくのである。そして、未来とは、これらを前方に反射させたものである。

 このような「現在」が、「無限」に深まるとき、わたしたちは「どこから来て、どこへ行くのか」という問題に、あらためて差し掛かるのである。

      *   *   *

 これまで、シャニマス のイベントコミュ では、たびたび「時間」の概念がモチーフとして見られてきた。最初に意識しはじめたのは、イベントコミュ『アジェンダ283』からである。

 河原でのゴミ拾いの最中、そこに捨てられているさまざまな事物のなかには、ある時間が流れていることに気がつく。それらの時間の意識は、アイドルによって解釈のしかたはさまざまであり、そこには新たに登場した ノクチル の独特な時間の感覚も、その議題のうちのひとつにあったのかもしれない。

 シャニマス において、主に語られる「時間」の概念は、いつも物質化されている「時間」である。始まりがあり終わりがあるような、大きな川の流れのような時間ではなく、また、フィクションのなかに安易に想像される、停まっている時間でもない。世界が時間の上にのっかっているのではなく、世界とともに時間が存在するのである。時間がそこにあるのではなく、部屋という「時間」がある、または部屋そのものが「記憶」であり「思い出」なのだ。あらゆる事物が、それ自体として「記憶」であり、「思い出」として、そこに光っているのである。

 「時間」そのものが、そこにあるわけではない。しかし意識のうちに「時間」は必ず関与している。科学的に「時間」を測ることはむずかしいことではない。秒針の歩みはひとつひとつが独立している。次から次へと流れてゆく。だが、そのたびに流れた「時間」はどこかに葬り去られている。ここでは「未来」を考えることはできない。では、意識は、どういうふうに「時間」をとらえているのか?

 すなわち、どこからが「過去」で、どこからが「現在」で、どこからが「未来」なのか?

 意識とは「現在」にある。「過去」から「未来」に移っているわけではなく、つねに「現在」にあるのである。そのときの「現在」において「過去」と「未来」があり、それが「現在」をつくっている。でなければ、「現在」を意識することはできない。「過去」は忘却され、ただ「未来」を期待しているだけであったら、「現在」とは、単にそこにあって当たり前のものとなるだろう。しかし、いまここに「死」をまえにして、自分自身のうらに語りかけてくるものがある。それは、いつか取り戻されるべきところの、ある懐かしき「背後からの声」であり、または、いつか取り戻されるにちがいないという、なんともすがすがしき「前方からの声」である。

      *   *   *

 ある夏の夜のこと、都会の大通りの景色は、ただ透明に、そのまま「無限」に深まり、通ったことのない道も、見たことのないお店も、行きちがう自動車も、無数の人影も、みんなそこから見えてくる。あの移動中の車のなかにあった、不思議な情緒は、そもそもなんだったのだろう? しばらくのあいだ自分を駆り立てていたあの追及と焦燥をわすれて、まるでそのときは「永遠」に感じられたのである。

 そこにおいて、ようやく自分という存在は、それ以外の事物との、本当の接近を為し得るにいたる。まことに、この孤独な存在にあって、はじめて、「愛」を規定し得るのである。自分よりほかの存在のうえに、はじめて生きることができるのである。

 わたしたちが、いま幸福のためにはじめられるのは、個人的な「愛」しか、そこにはない。まずは、おのおのが自分という存在に、今までとはまったくちがう考えかたをもつ必要があるのだろう。しかし具体的な方法については、ここでは云えない。

 ダイヤモンドを見つけるには、苦心と工夫がつきものである。それはただ郊外のひとすみにあって、獲得され得るものではない。しかしそれを忍びさえすれば、必ずその反対のものとして、ある気づきを得ることはできる。これは「宿命」なのだろう。

 

 

宗教とは直接な事物の流転の彼方にあり、背後にあり、又内部にあるもの。幻視である。実在であって、しかも実現を待っている或る物——最も遠い可能性であって、しかも現実の事実中の最大の事実である或る物——去来する総てのことに意味を与え、しかもわれわれの理解では捉えにくい或る物——それを有することが至高の善であって、しかも到達しがたい或る物——究極の理想であると共に、望みなき探索である或る物——この或る物へのヴィジョンである。

 

 七草にちか の「アイドル」は、「郷愁」に。
 緋田美琴 の「アイドル」は、「感動」に。

 

 

 

 

 

シャニマス ・アフォリズム

 

 

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シャニマス イベントコミュ金言集 及び抜粋

2022.2.28

 

 

* * *

 

『みんな特別だし、みんな普通の女の子だ』 
( Catch the shiny tail / 第5話 私の場所 )

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『そうですね、彼女たちはきっと
 魔法使いや、妖精みたいに
 たくさんの人を幸せにすることが出来る——
 アイドルって、きっと
 そういう『魔法』が使えるんです』
( [MAKING] スノー・マジック! / エンディング [edit] )

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『夜の太陽にもなりたいなぁって思うんだけど、どうかな?
 太陽の光は元気が出るけど、
 たまにそれだけが正しいようにも見えるから
 夜のすみっこに置いてもらえるような
 やさしい光にもなりたいなーって』
( 【ああひかりよ】八宮めぐる / よみちのみちしるべ )

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『——迷った方がいい時もきっとある』
( 階段の先の君へ / 第5話 ファイ・オー! )

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『こうやって、ちっちゃな声でおっきな声を出したり
 おっきな声でちっちゃな声を出したり……
 つらいことも悲しいことも
 全部ひっくり返して体当たりしているうちに——
 何かいいことが、一つでも
 やってくるといいなーって
 思ってます……!』
( 【ドゥワッチャラブ!】桑山千雪 / ひっくり返して生きていく )

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『カメラが写すものはリアルだろうか
 カメラが写さないものはリアルだろうか』
( ストーリー・ストーリー )

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『生きてることは……
 物語じゃ……ないから……』
( ストーリー・ストーリー / エンディング 家の物語の話 )

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『——暗い時ほど、光は綺麗に見えるんですね』
( くもりガラスの銀曜日 / 第5話 思考を煮詰めたような味 )

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『未来を考えることは……
 過去を考えることに……似ている……』
『ゆっくりと昔に戻っていくための未来も、
 あるかもしれないものね』
( アジェンダ283 / 第5話 会うことのない誰かのために )

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『分別してたら……
 つながった……!』
『ふふっ
 燃えるいのおかげね……!』
( アジェンダ283 / 第6話 つながるがつながる )

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『横に広がる部屋、縦に広がる時間……
 ここはもう、世界じゃない』
( 明るい部屋 / エンディング La chambre libre )

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『0時0分00000秒きっかりに
 飛んだら、どうなるか
 0時0分00000秒きっかりに
 飛んだら
 きっと
 すべては消えて
 ほんとの世界になる』
( 海へ出るつもりじゃなかったし / 第2話 風のない夜 )

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『なんかに似てた
 なんか、すごく最近見て
 すごく昔から、知ってるものに
 海に出るつもりじゃ
 なかったけど
 海に出てしまったから
 風を探している
 そういう夢に』
( 海へ出るつもりじゃなかったし / エンディング うみを盗んだやつら )

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『噂よりも
 ステージを見てほしい
 あたしはそこにいるから
 そして
 あたしたちがいるところにステージはあるんだ
 #ストレイライト』
( 【いるっしょ!】和泉愛依 / 愛のおはなし )

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『……雪は冷たいけど、あったかいんだ』
『あったかい雪もあるんだね』
『ハクチョウなら、あたたかい雪も
 もっと色んな雪も、知ってるのかもしれないね』
( 【Scoop up Scraps】八宮めぐる / ハクチョウとクマのポルカ )

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『ずっとこのままでいたい……
 けど……』
『う、うん……
 ずっと、このまま……いるなら……』
『ずっとこのままじゃ……
 いれない……』
( アンカーボルトソング / 第6話 のびる、びる )

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『愛は切り崩すものではないよ
 自分のために、自分でそれを求めに行ってくれないか』
『どんな天気の日も、カモメに餌を与え、
 そしてあなた自身がそれを受け取ってほしい』
『あなた自身への愛として』
( アイムベリーベリーソーリー / エンディング あい )

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『……不思議だよね
 繰り返しばっかりのつまらない時間を
 ……生きていたいって
 思っているみたいだから
 不思議だね、ニンゲンって』
( 【死神リポート】七草にちか / ▼観察 )

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『走ってほしい
 ……もし、自分のために
 走ってるんだとしても
 頑張って漕げば漕ぐだけ
 誰かの笑顔に近づいて……
 だからまた、
 自分のために走ろうっていうふうに思えたら……
 それは誰かのためになるのかな』
『————ひとりひとり、みんなになってくれ』
( はこぶものたち / エンディング 運ぶ人 )

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* * *


シャニマスの紡ぎだす言葉は、ときとして翼をもつ。それらの言葉は、かならず、ある逆説を孕み、ある空虚に満ち、あるリアリズムが十分に盛り込まれた、なんともふしぎな文体をあらわしている。
その言葉に、ひとたび出会えば、私たちは瞬時にせよ、私たちのなかにある虚無性に気づかされ、その意識の飛躍をもって世界の深淵に直面してしまう。
いま応答しなければならない。

地の底から天の果てまで、私たちのなかをスーッとつきぬけてゆくような、ある清々しさ。
かつて旧友の部屋で交わされた議論。あの行き詰まった議論に必要とされていたのは、じつは、このような言葉のなかにある、内奥の論理学ではなかったか?

 

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【琴・禽・空・華】を読みながら考えたこと

 

 

 

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(序)

幽谷霧子のコミュを読み解いてゆくと、それは全編を通して「克服」を描いた物語なのではないかということを思います。すべてのものを二つの対極から把握する、そうして「世界」を見るひとりの人間として、いかに生きてゆくべきか。その「世界」から何を以て乗り越えてゆくべきか。そう問われているのではないでしょうか。

というのも、前回のG.R.A.D.編のシナリオから、今回の【琴・禽・空・華】に続き、これまでとは、物語における「世界」への光の当たり方が少しずつ変わってきたことに気が付きます。

すなわち、彼女が見る「世界」の描写から少しずつ浮かんでくる「幽谷霧子」という人間、という描かれ方から、彼女が見る「世界」のなかにいる一人の個人としての「幽谷霧子」という人間、という描かれ方に移行してきたのです。

それは言い換えれば、「幽谷霧子」における「芸術」の描写から、「幽谷霧子」における「人生」の描写に移行した、彼女の物語が次の章に移行したと言えるのではないでしょうか。

しかし、もしこれが「世界」を描くものだとしたら、彼女がその中で感じてゆくものも、畢竟その「断章」に過ぎないのかも知れません。

 

物語は、アイドルの仕事ともうひとつ、彼女が志している医者になるための勉学を、限られた時間や体力のなかで、どう両立してゆくべきか、いや、それとも、どちらかに決めるべきなのか、ということに問題が生じてゆきます。

ここには、彼女の「迷い」があります。それは、前述した二者が彼女のなかで入り混じった、非合理で、はっきりしない状態です。大事なのは、彼女のその「迷い」がそのまま「迷い」として、その「迷い」からなにも損なわれることなく形をなすには、「迷い」をもって乗り越えるにはどうすればよいのか、ということでしょう。

それは決して「迷い」を断ち切ったり、あるいは帳消しにする、ということには、少なくとも彼女の場合に限っては、なり得ないのです。

「迷い」はある。しかし、そこにある困難な問題をどう乗り越えてゆくべきか、どう「克服」してゆくべきかが問われているのです。その為に、今の彼女には何が足りないのでしょうか。

それはプロデューサーにとって、彼女が「迷い」の世界、観念の世界、イメージの世界、目の閉ざされた世界に深く沈潜してゆくところから、「幽谷霧子」という個人としての確固たる存在を、いかにして見出してゆくか、すくいだしてゆくか、ということが求められるのでしょう。

そして、もつれあう二人の間を調停するのは、「世界」いわゆる「自然」の存在です。

「迷い」という非常に感性的なはたらきと、「自然」という言葉にならないおもむきとは、ちょうど対応しているかのように思います。

【琴・禽・空・華】では、表題のとおり、対象としての「自然」が四つ登場しています。それらに対して何を感じているのか、二人の間には、必ず何かのすれ違いが生まれますが、そこから改めて、コミュニケーションは始まるのです。

 

 

(1)「fuku ju so」

福寿草は春先に花を咲かせることから、多くは春を告げる花と言われているそうです。福寿草にとって「春」という季節は、きっと何ものにも代え難いとても大切な季節、花を咲かせる為には欠かすことのできない時間なのだと思います。しかし、もしその福寿草に「春」がなかったとしたら、「冬」が続いてゆくとしたら、福寿草はずっと、つぼみのままなのかも知れません。

霧子は、路傍に顔を出す福寿草のつぼみを見つけます。その姿が、霧子の「迷い」に対比されています。霧子は福寿草のつぼみについて、「冬」があり、そして「春」が来ることをわかっているのだ、知っているのだ、というようなことを口にします。しかし霧子には、「春」が来るのかわからない、知らない、という思いが大きいのでしょう。プロデューサーは、けれど「春」が来ないとも限らない、「その時」はきっとあるんじゃないか、というようなことを思いますが、彼は無責任な言葉をかけたりはしません。

福寿草が花を咲かせる為には、どうすればよいのか。それはそのまま、霧子が「迷い」のなかで「克服」をするには、どうすればよいのか、ということに重なります。この福寿草にあって、霧子にはないものとはなんでしょうか。「春」を思う気持ちは、どちらにもあるでしょう。

しかし、この両者には、「春」というものへの認識の違いが明確にあります。もしかしたら春は来ないかもしれない、いや、きっと春は来るはずだ、というところにある二つの対極は、それが来ることを「分かっている」か「分からない」か、ということになるのではないでしょうか。

霧子には、「分かっている」ことがなかなかありません。それは何かを理解すること判断すること、あるいは、何かと何かを「分ける」ことが、うまくいかないのかも知れません。

霧子はいままで、「分からない」ことを感じとることに、本当に素晴らしい才能を見せてきました。しかし、ここに来て、霧子は「分からない」ことも、「分かる」ことも同じく感じとろうとするという、無理をしようとしていたのです。

 

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(2)yu hi

夕日が差し込む時間を、黄昏ということがあります。人の姿が見分けにくくなると「誰そ彼」とたずねる、というところに語源があります。この言葉どおり、夕日の橙色にまぎれて、だんだん見分けがつかなくなってゆくような霧子の姿が、こちらの不安をあおるように描かれています。

ここに現れている「夕方」「橙の時間」というのは、すでに複雑に描かれています。みんな同じ色なのに、色はひとつしかないのに、そこには混沌があるのです。霧子はそこに同調してゆきます。それはまるで、霧子のなかにある「迷い」が忘れられてゆくように、取り除かれてゆくように、霧子が「幽谷霧子」ではなくなるように、心も身体もすべて橙色に染まってゆくのです。

それは、霧子が抱える「迷い」が「橙の時間」に対応していたからではないでしょうか。この「橙の時間」は、霧子の「迷い」のメタファーになっているとも言えるかも知れません。ここには、霧子の観念の世界、精神的な世界、目の閉ざされた世界が展がっていると言えます。

霧子にとっては、橙色から連想される暖かさ、太陽に照らされた暖かさ、というよりも、おそらくみんなと同じ色をしているという温かさ、ぬくもりを感じていたのではないでしょうか。それ故に、たとえ青くても橙色でも夕日は夕日であり、あたたかいものになり得るのでしょう。感覚的に与えられるものはほとんどなく、情緒的に受け取られるものが渦巻いています。

 

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では、なぜ「橙の時間」が、そこまでの効果を持っているのでしょうか。霧子の「迷い」にも当てはまるような、「橙の時間」にひそむ深淵とは一体なんなのでしょうか。ひとつ気がつくことは、ここでは「橙色」が絶対的概念として描写されているということでしょう。

さて、「橙色」が完全に普遍的なものであったとしたらどうでしょうか。あるいは生まれた時から、ずっと「橙色」しかなかったら、われわれは永久に「色がある」と認識することは出来ないし、それが「橙色」かどうかさえ分からないでしょう。さまざまな「色がある」中に橙色があるからこそ、われわれは「橙色」を認識して、見分けることができるのです。

「橙の時間」は全部を「橙色」に染めあげます。ユキノシタさんも、ゼラニウムさんも、ソファさんも「橙色」になり、霧子も「橙色」なってゆくのです。しかし、その時すべてが「橙色」になった「橙の時間」から、「幽谷霧子」という確かな存在を、はたして見分けることが出来るでしょうか。プロデューサーはそれを見て、少し不安を覚えるのです。彼はこう云います。「霧子の色をした、霧子でいてくれればいいんだ」と、そう云って電気を点けるのです。するとそこには全部の「色がある」ようになり、 「橙色」はその効果をなくします。つまり彼は、霧子に「光」をあてたのです。

夜でもなく昼でもない、あるいは夜でもあり昼でもある。明るくもなく暗くもない、あるいは明るくもあり暗くもある。その二つの対極の、どちらにも影響を及ぼしながら、しかしどちらとも言い表すことができない、非論理的な、非合理的な、非常にアイロニカルな性質をもった境界の時間。それが「夕方」という時間であり「橙色」はそこに現れる、象徴的な色なのです。すなわち、それが「橙の時間」なのでしょう。

そして、それは奇妙にも、絶対的性質を持ち得るということが、ここに描かれているのです。

 

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(3)o t o

では、プロデューサーである自分は、霧子に何をしてあげればよいのか。彼は、霧子がふいに鳴らしたピアノの「音」から、それを悟ります。

大事なのは、霧子の「音」を代わりに「言葉」にすることではない、「分からない」ことを「分かる」ことにするのでは必ずありません。それはだれかが負っている役目のはずですが、少なくとも彼の仕事ではないのです。

彼の仕事は、霧子が自ら、自分の「迷い」を「音」に表現できるようにすること。それは、アイドルの為にステージを用意する、プロデューサーの基本的な仕事に全く共通することです。

プロデューサーはこれまで霧子の姿を見てきて、すでにどういう人なのかを知っていたからこそ、それがもどかしく、焦って「言葉」にしようとして、悩んでいたのかも知れません。

「音」というのは初めから目に見えるものではないし、「分からない」ことというのは自然に形をなしているものではありません。それは、「音」にならないかぎり存在していることすら人に伝わらないものなのです。しかし、それが「音」になれば、「分からない」ことが微妙に「分からない、けど分かるかも知れない」ことになる、何かが存在することになるはずです。「分かる」ことと「分からない」こととの間が、少しでもどこか繋がってゆくはずなのです。

「霧子の仕事は、その気持ち全部に向かい合うこと 俺の仕事は、そうできるための環境をつくること」そう云って、彼は自分の仕事を再認識します。風に誘われるように入った先に、音楽室という場所があって、そこにピアノという方法がある。いろんな気持ちを思いピアノを弾く人がいて、それを真摯に感受しようとする人がいる。奇跡的に集約されたこの時間と空間のような、まさにこの音楽室のような、そういう機会を、そういう環境を作り出すことこそ、自分が霧子にしてあげられる唯一の仕事。それというのは、アイドルの「ステージ」に限らず、ある人に思いを伝えようとする時、たとえば撮影現場であったり、学校であったりするのかも知れません。

ある「自然」が作り上げた「ステージ」で演奏する霧子を見て、プロデューサーはきっと、そう感じていたのではないでしょうか。

 

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(4)ha ka

なにかは「分からない」、ただなにかが生きていたということがどこかに残るには、それが「音」のようなものでは不十分かも知れません。しかし、それが目に見えて「分かる」ものになれば、形に残っていれば、どこかにまた、それを感じとる人がいるかも知れません。

「分からない」ことを「分かる」ものにする、それが「墓」というものの役割でしょう。

しかし、その「分からない」、なにかが確かに生きていたことが、その「墓」にすべて現れているというわけではない。だから、霧子はそれを見つけて手を合わせるのでしょう。その思いに、あとからプロデューサーも応えます。

事実そこになにがあるのか、二人には知る由もありません。しかし、そこには「分からない」なにかが、たしかに存在しているのです。では、なぜ存在していると言えるのか。そこにあるのは、おそらく事実のものとは違う「墓」に過ぎないでしょう。その姿はどこにも見えません。しかし、知る由もなかった「分からない」ものが、だれかによって思い出されるのなら、全く存在しないとは、言いがたいものでしょう。なにかが生きていたという時間と今そこにある「墓」との間にある存在が、霧子の「お祈り」によって見出され、つながってゆく。霧子は、その「お祈り」を繰り返しているのです。

なかには、ずっと「分からない」方がいいものもあるかも知れません。ここに存在することによって、痛かったり辛かったり、寒さに曝されることもある。それなら、ずっと形に残らない方がいいものも、この世の中にはあるでしょう。非常に残酷なものが埋まっていてもおかしくはないのです。(しかし、そういうところまで想像してゆくのは、彼女の美しいところでしょう。)

しかし、それでも霧子は「お祈り」をするのでしょう。なぜなら、もしここに埋まっているのが小鳥なら、土の中より、やっぱり空にいる方が良いはずです。いまはここにいなくても、確かに存在していると言えるなら、霧子は云います。「半分だけ……生きてるのかも…………」と。

それなら、まだ小鳥にも「これから」がある。もしそう言えるなら、それは霧子も同じはずです。まして生きているのだから、プロデューサーには霧子が確かに見えていて、確かに見ているのだから、なにをしなくても「幽谷霧子」が存在していることは「分かっている」ことなのです。

ホトトギスが、「春」の訪れを報せるように、鳴いていました。

 

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(5)日

土の中に深く深く根を伸ばした福寿草はいま、「春」の訪れとともに、「日」に再会します。

それは、これまでの寒い、重たい、しんどい「冬」があったからでしょう。

土の中に忘れられようとしていた小鳥はいま、なにかを大事に思う気持ちに寄せられて、「空」へ飛び立って、帰っていったかも知れません。

そして霧子も、「これから」を生きてゆこうとする時、霧子の思いは届いてゆきます。それは、プロデューサーが計画を出した、そうできるための環境を作ってくれたからでしょうか。

福寿草が「日」を仰ぐように、

小鳥が「空」へ帰ってゆくように、

霧子は「迷い」を「克服」してゆきます。

それも、ひとつの「自然」に過ぎないのです。

 

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むすび

さて、彼女がアイドルをやるか医者をやるかの別はあるにしても、彼女が「迷い」から離れることはできないのでしょうか。ですが、自分の「迷い」に対して、屈従的にも逃避的にもならず、積極的に体験して「克服」してゆこうとする姿を見る時に、「迷い」はかえって、「真実」に近づく手がかりとなるのではないか、と私には思えることがあります。それを意識しているかは分かりませんが、その心構えのようななにかを感じるのです。この【琴・禽・空・華】には、 彼女の自己にある「迷い」を中心に、さまざまな二つの対極の関係がありました。

表にまとめれば正規分布を描くでしょう。

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シャニマス全体を通しても同じく思います。

それらの「迷い」は、おそらく人の数だけ存在するのでしょう。きっと霧子に限らず、23人それぞれが、6ユニットそれぞれが持っています。

志向する先の「真実」を、シャニマスでは、「空」と形容するなら、そこにある二つのものは、やはり「翼」と言えるでしょうか。

「真実」のあらわれともとれる「空」に触れるからこそ、また自分の「翼」は強く意識されて、強く意識するからこそ、それを「克服」して、 また新しく「空」に向かってゆく。

アイドルたちの物語は、まだまだ始まったばかりなのかも知れません。

(さいごに、ここまでお読みくださり有難うございました。幽谷霧子さんに感謝の意を捧げます。)

 

 

 

 

 

自作を回顧して綴る 2021.01.18

 

 

 

シャニマスでなければ、私は二次創作をはじめることはありませんでした。どんなに深い発想も受け容れてくれるような、とても自由な領域が与えられたような気がしたのです。

こと更に衝撃を受けたのは【我・思・君・思】という中の「かなかな」です。それが自分の二次創作をする、直接のきっかけになりました。

もっとも、自分の書いたものが二次創作と呼べるかは、いまだにはっきりしませんが、……

 

『病室』というのは私の処女作で、いま思えば、書き上げられたことが奇跡のような作品です。 最初の構想は、「長閑な療養所に勤める看護婦の霧子さん」と「海に遠く憧れを抱く少女」というだけで、内容や構成はほとんど考えず、あとは今まで読んできた文学作品を思い出しながら筆にまかせて書いてゆきました。結末は意図せず、その都度、ぼんやり考えていたのは、日本の昔話のような「あわれ」という概念、「成就」よりも「循環」してゆくという構成が、霧子の物語にぴったりなのではないかということです。「何も起こらなかった」ということが生じる、「無」が生じる、ということを意識して最後は書いていました。主に参考として傍にあったのはロマン派の文学、堀辰雄や初期の三島由紀夫の作品でした。三島由紀夫の小説には文学的に大きな影響を受けています。小説を書くことに、まだまだ素人な自分は最初、三島由紀夫さんの「文章読本」を実践的な味方にしていました。それに学んで「観賞的文章」を心がけています。

 

『あいにさらさら』というのは、それから半月もしないうちに、半ば衝動的に書いたものです。青森県に「あいにさらさら」という歌い出しの童歌があるそうです。それは小さい子供が、軽い怪我をしたときに、大人が優しくさすりながらとなえてくれるおまじない、「痛いのさん……飛んでいけ……!」というような童歌です。

霧子も小さい頃に歌ってもらって、それを今度は歌ってあげる、という情景を書いたものです。 そのささやかなおまじないが、お祈りとなって、危篤の少年の思い出のなかで「救い」になる。霧子の思いがけないところで、ある「言霊」が、少年に力を与えてくれる、ということを考えて書いたものでした。

 

『言下』というのは、凛世のことを書いたものですが、とても難しかったのを覚えています。【凜凛、凛世】の「雨宿り」を下敷きに書いた作品です。

私は邦楽の中でいちばんと言うほど、井上陽水が好きなのですが、井上陽水さんの楽曲のなかに忌野清志郎さんと共作したという「帰れない二人」という曲がありまして、このコミュをみたときに頭に流れてきてぴったりだと思ったのが、書いてみようと思ったきっかけでした。

しかし、最初はあまり思うように筆は進まず、とても苦労をしましたが、それもこれも特に内容を考えずに、凛世と二人きりで居ることの張り詰めた感情と、雨のつめたさを、たんたんと、表してゆくことに専念していたからでしょうか。書き出しの一文に納得が入ったところから、徐々に形になってゆきました。凛世には、恋愛という大きな主題がありますが、つめたさに生じる暖かさ、二人きりの四阿にある空間の疎外感、その端々に恋という概念、エロスの愛を際立たせられると良いだろうと考えていました。なので専ら、参考として傍にあったのは、川端康成の作品でした。ここでは、まだ初恋のようなあどけなさが残るものに止まりますが、さらに追求すれば、G.R.A.D.編に見られるような片恋も表現できるのでしょうか。しかし、あんまり大人っぽくてもいけないような気もしますから、やはり、この塩梅は相当難しそうです。

 

『雪解抄』というのは、それから半年もあけて、久しぶりに筆をとって出来たものでした。

小説を書くことに自信をなくしていたのですが、あまり難しいことを考えずに、自分の感性だけをたよりにして、一文ずつ、なかなか面白い連想の、丁度よいなと思うものだけをあつめた詩の世界を、そのまま「雪」というイメージに照らし合わせたものと言えるでしょうか。

『黄昏』というのも、ほとんど同じです。理性に制御されずに、無意識のうちにある言葉を書き付けてゆく「自動記述」「オートマティスム」という手法を用いています。ですが、その時にはパッと出てきたものが、あとから考えればなにか見覚えのある言葉であったりして、その気づきの面白さと、この手法の難しさを感じました。

「お医者さんごっこ」のような子供じみた遊びを、さも「神話」のように語って尤もらしくする、というような感じでしょうか。霧子の体をパン、血液を葡萄酒に見立てた儀式を執り行う、というのは、少しエロティックな後付けですが、霧子はいつも遠い眼をしているでしょう。

 

『幽谷霧子と或る少女』というのは、あまり私自身が語れることはありません。宮沢賢治の「マリヴロンと少女」と「めくらぶだうと虹」という作品をオマージュしたものです。

宮沢賢治は、われわれの労働の中にこそ、生活の中にこそ「芸術」がなければならない、ということを云いました。彼女は「医者」を志していますが、その誠実さ、優しさ、強かさ、それらはすべて、彼女の大きな創造性や感受性に根差しているものなのではないでしょうか。本来は「医者」という職業には、況して日々の生活の中には、全く関係のなさそうなクリエイティブな思考が、実はそれらを支えている根幹をなす重要な部分なのかも知れない。そういうようなことを考えながら書いていました。

本当は、「人生」と「芸術」という対立から、「ストーリー・ストーリー」のことも踏まえて、話してゆきたいなと思うのですが、うまく言葉に纏められる自信がないので、今度にします。

 

『ある晩、お月様とデートする話』というのは、題名からも分かる通り、イナガキ・タルホ ・コスモロジーに触発されて書いたものです。

いかにも「一千一秒物語」に出てきそうな題名ですが、実際には、そこまで天体に親切なことはありません。月に殴りかかるくらいです。

ところで、なぜ自分が、これほど幽谷霧子さんに気を引かれるのかといえば、それは本質的に、ほとんど違う人間だからなのかも知れません。霧子は将来的に医者に落ち着くのでしょうが、おそらく私はこのままずっと創作に打ち込んでいるでしょう。彼女が太陽的だと言うのなら、私はつくづく、自分が月球的だと思うのです。「ルナティック」であろうとしているのです。

月球的な人間というのが存在します。太陽の裏にあって、周りが暗くなれば、それに憧れるように光を反射する。しかし、その身に近づいてみれば、ただ荒涼とした土地があるばかり。いつもすまして高貴なふりをしては、うちにひそむのはフラジリデートな、薄情さ、感傷さの為に、意地の悪さや意志の強さを応援する。そんな、月球的な人間が世の中には存在しています。

しかし、なぜか対極にあるはずの彼女は、そういう想いが馬鹿馬鹿しくなるほど、なにもかもを受け止めてしまう、包摂してしまう、そしていくら掬い上げても滾々とわき出て止まない、源泉であるような心の深さを想わせるのです。

かならずしも彼女を太陽的だとは断言できない、ある種の共感があるのです。それはこちらからなのか、それとも向こうからなのか、それがお互いさまであれば、とても幸せなことです。

 

 

 

 

【我・思・君・思】「かなかな」の主題と構成

 

 

 

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(序)

幽谷霧子のコミュを読み進めてゆくと、二つの相反する要素がしばしば登場し、二つのものの対照的配置から生じるエネルギーが彼女によって紐解かれてゆきます。

【我・思・君・思】「かなかな」の場合には、「私」と「世界」が、対になっている題材でしょう。すべてのものごとには二つの対極から成る、一面観ではなく両面から把握しようとする、もう一方の観点を見逃さない、のが霧子の考え方の基本のひとつと言えると思います。

ここでは仮に、「パースペクティヴ」と言います。

(あるいは、霧子に限らず、シャニマス 全体に言えることかも知れません。二つの相反する要素が一対になっている表現は、シャニマス の最大のテーマと言えます。私は、ここに深く文学性を感じずにはいられません。)

そのことを心のなかに暖めながら、順次に読み進めて、印象をまとめてゆきましょう。

 

先ず表題ですが、【我・思・君・思】は「みんみん」と「かなかな」に分けられます。いつも通りの日常的な、アンティーカのある夏の日を描いた「みんみん」に対し、あはれを感じさせる「かなかな」をもって調和的な情緒をとらえます。ここでは「かなかな」を掲げます。

通観すると、表題に醸し出された通り、デカルトの提唱した命題「我思う、故に我在り」がモチーフになっていることが分かります。それを本題として、三つの段落に区切ることができます。基本的な三幕構成になります。

つまり、このコミュの展開は、霧子の視点から始まる適当な状況説明を導入に、咲耶を通じてデカルトの命題を共有し、霧子の心情が現れたところで結末を迎えます。

しかし、このコミュの表題は、【我・思・我・在】ではありません。デカルトの場合はともかく、霧子はこれを【我・思・君・思】とするのです。ここには、霧子自身の考え方が現れており、それが主に語られてゆきます。

 

デカルトの「方法的懐疑」を確認しておきましょう。

デカルトが抱いていた以前からの諸学への不満は、どんなに緻密に論証を組み立てても、肝心の基盤が不確かなのであれば砂上の楼閣にすぎない、ということでした。

つまり、「現実」に於いて考えていることが確保できなければ、どんな論証も非現実的になってしまいます。

どんな疑わしさも入り込む余地のない「現実」を確保する為に、彼が考え出した措置が「方法的懐疑」です。

それは、確実なものと疑わしいものの厳密な分離です。ほんの少しでも疑わしさの残るものは、断固としてそれを偽とみなし、斥ける。「疑いを容れないもの」を基準に、徹底した懐疑をもって確実性を模索しました。

デカルトはこの方法によって、「我思う、故に我在り」という哲学の第一原理へとたどり着きました。

しかし、霧子はデカルトと少し異なる態度で、この問題を共有します。以下、冒頭から展開の順にしたがって、概観してみることにしましょう。

 

(1)

先ず冒頭の場面は、敢えて不可解な表現を多く残しています。霧子自身の視点から目覚めたところを察するに、ごく自然に、夕方の事務所の風景を「現実」として見ていることを想像し、補います。しかし、眼前には咲耶のほかに誰も居ないこと、仮眠をしようとしていたこと、なぜ眠っていたのか、「さっきの話」とはなにかなど、前半の「みんみん」からの脈絡はほとんどありません。

 

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それに加えて、咲耶の一言から、眼前の風景が「現実」であるということにも、確実性が危ぶまれてゆきます。

この時すでに、私たちは完全に宙吊りの状態にさらされます。ここに映し出されている「世界」の光景が、「夢」とも「現実」とも判明しがたくなれば、緊張感が漂い、不気味な静けさだけが鮮明に浮かび上がります。

すべてにおいて、確実性の欠如した状況が作り出されたところで、この導入は完了したと言えるでしょう。

満を持して、咲耶が問題の話を始めます。

 

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(2)

『私は今ここにいる』

現実でも夢の中でも、きっとそう思っているはずです。だとしたら、現実だと思っている世界も、そう見えているだけで、本当は夢で、すべては幻だと言われても否定できません。あらゆる認識には確実性がないのです。

デカルトは、疑いの余地をそうして認めてゆきます。

 

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(…)

 

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咲耶の一言のあとに、映し出される景色は、馴染み深いものであるはずなのに、どこか現実味のないリアリティだけが剥き出しになったような驚異として見られます。

「かなかな」というセミの鳴き声も、例外ではありません。心のありよう次第で事象は大きく変容してしまう、その象徴的なものとして、常に描写されています。

(おそらくは、前半の「みんみん」にも言えることかも知れません。心のありよう次第で、つまり、セミになりきれば「暑さ」という認識も変わりえるのではないか。私たちの心の内で「みんみん」というセミの鳴き声は、夏の「暑さ」と自然に重なり合ってしまうのです。)

 

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この「世界」は、本当は夢かも知れない。

「夢」ではないと否定できない。

「現実」ではないかも知れない。

それは、私たちの「存在」を疑うことになりかねません。シリアスな問題に否応なしに直面します。そして、少なからず、とまどいや恐怖を覚えるかと思います。

なぜなら、私たちは認識判断の内に「現実」と「夢」を自然に区別し、その上で「現実」にあるものを「存在」している、と当然のように受け容れているからです。

「現実」にあるものが、すなわち「存在」している、ということは私たちにとって自明であり、日常的にそれを疑うことはありません。「現実」は、「世界」がいつもすでにそこにあるものとして確信しているからです。

「現実」が本当は「現実ではない」のなら、そこにある「存在」も本当は「存在しない」のではないか。

私という存在も、本当は「存在しない」かも知れない。そう思えば、誰もが恐ろしいと感じるはずです。

 

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ですが、霧子はすぐに落ち着きを取り戻します。安らかに少し微笑んで、狼狽する様子はほとんどありません。

なぜ、霧子は平静でいられたのでしょうか。

シルエットになる描写は、「存在」の不確実性を表していると言えます。『私は今ここにいる』ということが、その「現実」が疑われている状態です。しかし、霧子はシルエットの状態から元に戻ります。つまり、「存在」の確実性を見出すことができた、自らの「存在」を発見することができた、ということになるのでしょうか。

実は、すでにここには「存在」への反省があるのです。

 

デカルトは、そう考えました。前述した通り、すべてが虚偽だとしても、まさに疑っている意識が確実であるならば、そのように意識している自らの「存在」を疑うことはできない。すなわち、「我思う、故に我在り」と。

おそらく霧子は、知らずしらずのうちにこの命題を共有していたのではないでしょうか。つまり、彼女には自らの「存在」を反省する心が普段からあったのでしょう。それは、彼女の性格を特徴づけている性質の一つと言えるのではないでしょうか。いわゆる、前述した考え方の「パースペクティヴ」が、これにあたります。

 

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ですが、ここで少し、デカルトの方法と霧子の考え方にすれ違いが見られます。霧子は、デカルトの方法を完全に共有しているとは言えません。なぜなら、疑っている「現実」、疑っている「世界」を、疑いえるものとして斥けている、否定しているわけではないからです。

あるいは、「現実」ではないとみなして、斥けるほど、否定するほど、疑っているわけではないからです。

 

デカルトの方法を、咲耶の言葉から見てみましょう。

「自分が信じているものの中で、疑いを容れないものはない」という疑っている意識があるからこそ、そうして意識している「わたくしは在る」と言えます。そして、それには、「この世界も、今見ているように見せられているだけかもしれない」という疑っている対象がある、「わたくしは思う」対象が常になければなりません。

デカルトはそうして「わたくしは在る」というところに「疑いを容れない」確実性を見出し、帰着するのです。

「夢」か「現実」か分からない「世界」、

「偽」か「真実」か分からない「世界」は疑いえるものとして「偽」とみなし、「真実」ではないとみなして、斥ける、否定する。この徹底した懐疑があるからこそ、「自我」の存在は確実に、より純粋なものになります。

デカルトは、「世界」の存在の可疑性に対して、自らの「自我」の存在の不可疑性を論理的に説いたのです。

 

しかし、霧子は、そんな「デカルトさん」のことを、「不思議な人」だと言います。……

 

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(3)

では、霧子が意図しているものとは何でしょうか。

ここからは、霧子の考え方が披瀝されるにしたがって、デカルトの「方法的懐疑」から離れてゆきます。

しかし、部分的には、その要素を残していると言えます。霧子の考え方は、この方法に全くそぐわないというわけではありません。デカルトは、日常的に疑いがたい自明性を疑ってゆくことで「世界」を見直し、いわゆる「パースペクティヴ」を捉えておりました。そこから、「自我」の確実性を基礎として考え始めますが、霧子は、「パースペクティヴ」に改めて立ち帰るのです。

はたして、デカルトは完全に「パースペクティヴ」を捉えられていたと言えるのでしょうか。いわば、神の視点とも言える領域に到達していたと言えるのでしょうか。

霧子は「パースペクティヴ」な、より純粋な「意識」を、いまだに、変わらずに心がけていると言えます。

「パースペクティヴ」とは、すなわち、視点の多極化であり、自然に考えられる主観性の立場から脱け出すことを意味します。そこから、「私」と「世界」の関係性を反省したところに、デカルトとの差異が現れます。

 

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「意識」とは、なにかについての意識であり、常にある対象に向かっているという性質があります。霧子は常に「世界」を「意識」しています。しかし、それは疑うというように「存在」に主題性を置いている「意識」ではありません。霧子が関心を持っているのは、「存在」の確信ではなく、「意識」がどうあるのか、にあります。つまり、「意識する存在」と「意識される存在」の相互の関係性に関心を持っているのです。その為に、「意識する存在」としての「私」と、「意識される存在」としての「世界」を、先入見の入らない純粋な意識の主観性から「パースペクティヴ」に捉えようとするのです。

「パースペクティヴ」な視野を心がける霧子にとって、「世界」すなわち「意識される存在」とは、感覚所与に経験されるすべての事象であり、物質的にも精神的にも、森羅万象のすべてが「世界」と言えます。そして、「世界」の内に存在する主観性ではなく「世界」の手前に見出す主観性こそ「パースペクティヴ」と言えます。

(少し本筋から離れますが、幽谷霧子のファン感謝祭編「ふねがでます」は、まさしく「パースペクティヴ」な彼女の考え方が、語られているコミュと言えます。)

 

「西日がきつい」ようであり、咲耶は「少しカーテンを引こうか」と提案します。しかし、霧子は引かなくて「いいの」と言います。この描写は、それが、確実性のない「偽」であったとしても、あるいは煩わしいものであったとしても、「意識される存在」として純粋に捉えようとすることを示唆するものではないでしょうか。

そんな霧子が「意識する」夏の夕方は、さまざまな思い込みや、前もってつくられた観念が重なり合ったような「日常的な世界」のものではなかったのでしょう。

そんな夏の夕方はもはや、言葉にならないのでしょう。それを、霧子は素朴に言い表します。

「とっても……夕方で……」「すごく夏……」

 

そして、「世界」すなわち「意識される存在」の中には、もちろん「咲耶さん」も含まれているのです。「私」と「世界」、そして、そこに「他者」という別の主体の「私」がいて、いよいよ「パースペクティヴ」は錯綜してゆくのですが、それは結華とのコミュである【君・空・我・空】にて、紐解かれることでしょう。

(もし仮に、この出来事が、現実である可能性は捨てきれないとしても、夕方の事務所のソファで、恋鐘や摩美々や結華に見守られながら、ひとり咲耶の肩を借りて転寝をする霧子が、いっぱいの咲耶の匂いに誘われて、見ていた夢だとしたら、と私は思いをつのらせます。)

 

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霧子にとって、現実に実在する咲耶も、夢の中にいる実在しない咲耶も、どちらも「意識される存在」であり、「世界」のものであることに間違いありません。

夢でも、夢ではなくても、咲耶が「意識される存在」であり、霧子が「意識する存在」として「意識する」ことができるのなら「嬉しいな……」と霧子は言うのです。そこには、限りなく純粋な「意識」があるのでしょう。つまり、それらの「存在」の確実性が問われない、確信に何の変化も加えることのない「意識」があるのです。

霧子の言葉で、「お祈り」と言えるでしょうか。

 

そして、デカルトの「方法的懐疑」と、霧子の考え方にある、決定的な差異がここに明らかになります。

デカルトが意図した試みは、絶対的に疑いを容れない「存在」を明らかにする為の疑うということ、すなわち「わたくしは思う」という「意識」であり、そこから、「わたくしは在る」という「存在」にたどり着きます。すなわち、【我・思・我・在】

しかし、霧子は「意識」の方法に深く着目しています。「世界」がどのようにして「私」に与えられているか「意識される」かに対して、「世界」をどのようにして「私」は捉えるのか「意識する」か、に着目します。「意識する存在」がなければ、「意識される存在」はありません。反対に、「意識される存在」がなければ、「意識する存在」はありません。霧子にとって、ここでもっとも「意識される存在」といえば「君」、つまり「咲耶」のことでしょう。「わたくしは思う」そして「君は思われる」「世界は思われる」故に「我思う」。すなわち、【我・思・君・思】


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はたして、今までの出来事は「夢」だったのでしょうか。それとも、「現実」だったのでしょうか。もはや、論ずるに足りません。「夢」も「現実」も、相互に浸透した「世界」が、ここには広がっているからです。

霧子にとって、咲耶と過ごした時間は、霧子が経験した紛れもない事実であり「存在しない」とは言えません。

「世界」があるからこそ、霧子は「世界」を「意識」することができます。「咲耶さん」がいるからこそ、霧子は「咲耶さん」に「おやすみ」を言えます。「世界」があるからこそ、霧子は「意識する存在」でいられます。それは、「デカルトさん」も例外ではありません。

「世界」があるからこそ、霧子は「霧子」でいられる、と言えるのではないでしょうか。

 

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むすび

幽谷霧子は「自分を変えたくて」、アイドルのオーディションにやって来ました。すごく心配性で、人のことばかりを考える彼女には「意識する」ことしかない為に、自分が本当は「存在しない」のではないか、という不安を抱えることも、きっと多かったのではないでしょうか。ですが、自分を変えるのではなく、そのままの彼女を、プロデューサーやアンティーカのメンバーが確かに見ていることによって、霧子は「意識する存在」であり「意識される存在」である自分を発見してゆくのです。そうした不安を克服してゆく霧子だからこそ、この問題を共有できたのではないでしょうか。このコミュには、幽谷霧子の「第一哲学」が克明に語られているのです。しかし、まだまだ「存在」への反省は終わりません。終わらないからこそ「存在」しているのです。

それから、霧子の考え方を哲学の専門分野から論ずるとすれば、フッサールの提唱した《現象学》が想起されます。さらに限定すれば、フッサールが「自然的態度」から離れて意識の「志向性」に目を向ける為に、デカルトの「方法的懐疑」を手段として生かしたところから、「志向性」が深化してゆくにつれて「方法的懐疑」から離れていった、という「現象学的還元」の道筋が、参考として非常によく見られるのではないかと思います。

これを書くにあたり、《現象学》についての様々な文献をとても参考にさせていただきました。

(さいごに、ここまでお読みくださり有難うございました。そして、幽谷霧子さんに感謝の意を捧げます。)

 

文献

デカルト方法序説 ほか』(野田又夫・井上庄七・水野和久・神野慧一郎 訳)中央公論新社。(2001)

デカルト省察 情念論』(井上庄七・森啓・野田又夫 訳)中央公論新社。(2002)

フッサールデカルト省察』(浜渦辰二 訳)岩波文庫。(2001)

新田義弘『現象学とは何か』講談社学術文庫。(1992)

新田義弘『現象学と近代哲学』岩波書店。(1995)