Beaver Board

二次創作の為の合板

相対について

 

 

本当のところは、書き残すことに気の進まぬ思いが拭い去れない。ならば、書かなければ良いではないかと思われるのが当然であろうが、そうもゆかず、もう書いているしか手立てがない、書かざるを得ないというのが実情である。書きたくないが書きたい、書きたいが書きたくない、そのどうどう巡りである。しかし、この相矛盾する意識は、どちらが否定でどちらが肯定かも分別することができないものであり、いわゆる、どちらも否定であり肯定である。その現実が受け入れられた時に、私はようやく筆をとって、書くのである。それは、自らの中に相対的な性質を認めた上での行動である。だからといって、書きたくないという意識を排したわけではない。その意識があるからこそ、認めることが出来たのである。

「書きたくない」という意識は、いわゆる意地であろう。すでに理解を終えた、智慧をもったものなら、書く必要も、書こうと思うこともない。その様な姿に、私は憧れ、その様な姿でなくてはならないと思うのであるが、もう既に、ここには自己矛盾があるのである。

「書きたい」という意識は、それに対して理性であろう。どうしても理解できない、はっきりしない不安に苛まれている、あの緊張感から、私は言葉によって、ひたすら方法を模索する、その欲求があるのである。

何かを「書く」という意識は、この二つの意識のちょうどあいだにある。書こうと思わなくなることに憧れて、書きつづけるのだが、書きつづけられるのは、書こうと思わなくなることに憧れがあるからである。この時に、現実にあるのは、相対的な、人間的な私である。憧れているということは、いまだ、書こうと思わない境地には至っていないということである。しかし、いずれは分別ざかりになるということもなさそうである。

私は、相対的な存在であるかぎり、「憧れ」ているからである。

(もっとも、「書きたくない」のは、まだ右も左も分からない時分に「書きたくない」と思っていたこと、いわゆる、「知ったかぶり」をしていたことである……)

 

 


ここに登場したのは、別の言葉に置き換えれば、絶対者と、それに憧れを抱く相対主義的な人間の姿である。絶対者とはいえども、それは真理の光景であり、人格的なものではない。それに対して、相対的なこと以外は認知できない人間にとっては、まったくイメージのつかないものである。人間が人間であるかぎり到達できない、無限の、絶対的なもの。それは、反対の立場にある客体だからこそ輝かしいものだが、相対的な立場にあるのは人間だけである。相互関係に入ってゆくには、生きて、生きて、生き延びていかなければならない。人生を生きていなければ、それは見えなくなるのである。

そこには、宗教も芸術も科学も人生もあるだろう。それぞれ、真理を探求する、絶対者にたどり着く為の思想である。それは生きていなければ持つことはできない。逆に言い換えれば、生きているということは思想を持つこと、つまりは、真理を探求して尋ねあぐむことを意味するのではないか。どの分野に於いても、それは結果的に、死の観念に触れることになるのである。

しかし、生きているということも結局、相対的であり、生を考えることは死を考えることにほかならない。

 


何回も同じことを言っているようになるかもしれない。「絶対」という理想を考えるものであり、「相対」という現実を考えるものである。しかし、この相互関係から逸脱した、理想は理想として、現実は現実として、独立させて考えようとしてはならない。それが条件である。

「絶対」とは、完全なるもの、無限なるもの、理想的であり、夢想的であり、虚偽であり虚無である。あるいは、まったくその反対である。

「相対」とは、不全なるもの、有限なるもの、現実的であり、実際的であり、事実であり真実である。あるいは、まったくその反対である。

すべては絶対視するには及ばない、相対的なものである。宗教も、芸術も、科学も、相対的なものであることに変わりはない。しかし、それらは絶対的なものについての意識であり、その対象に向かっているものである。あえて、逆らう、抗する意識なのである。生きることに対して、死に向かう意識と言ってもよいのではないか。それ故に、宗教も、芸術も、科学も、思想は一見するとグロテスクなものを表している。それらは、癒されるものでも慰められるものでもないだろう。しかし、また、逆説的には、そういうものかもしれない。

思想のあやうさ、あやまちは、相対性を忘れてしまうこと、自棄に走ってしまうことである。生きることをする為に、死を考えることが、死ぬことをする為に考えることになってしまう。目的の為の手段が肥大して、徐々に目的を抑圧してしまうのである。目的の為の手段、思想が、目的になり代わっては本末転倒である。宗教も、芸術も、科学も、「絶対」を見出し、それが完全に目的になってしまった時、もはや、その惨状は目も当てられないだろう。それらの異常な不気味さ不快さが、まったくあらわになるからである。

いつしか、相対的な絶対的意識に「絶対」を見出し、それを目指していると錯覚する。それは相対的な立場からそう見えてしまうだけのことであり、そうだとしたら、そこから脱却すればよいだけの話になってしまう。安易に相対主義的立場から逃れようとしてはいけない。考えつづける辛抱強さ、真面目さを持たなくてはいけない。「絶対」とは実に純粋であるべきだが、事情はそう単純ではない。かと言って、複雑というわけでもない。憧れの意識は、いつでもはっきりしているからだ。この不安定さは、安定した不安定さを保ちつづけることにある。

ならば、「絶対」的な「真理」や「善」、若しくは「美」は、その「相対」性のかなたにある交錯点にあるのかもしれない。または、そこに到達しようとする意志にあるのかもしれない。人間のなかにある「相対」性は、生と死、宗教と科学、芸術と人生、それでなくとも、言いたいけど言いたくないこと、書きたいけど書きたくないこと、知りたいけど知りたくないこと、完成であり未完成、完全であり不完全、枚挙にいとまがない。それらは、ずっと平行線であるかもしれないが、希望であって絶望であり、絶望であって希望であり、夢はあるが夢はなく、夢はない、が、夢はある、のである。

この押し問答の最後に、若干のオプティミズムを残して終わりたい、と不肖な私は思うのである。

 

「外に出ようとしないで、汝自身のうちに帰れ。

 真理はひとの心のなかに宿っている。」