Beaver Board

二次創作の為の合板

【我・思・君・思】「かなかな」の主題と構成

 

 

 

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(序)

幽谷霧子のコミュを読み進めてゆくと、二つの相反する要素がしばしば登場し、二つのものの対照的配置から生じるエネルギーが彼女によって紐解かれてゆきます。

【我・思・君・思】「かなかな」の場合には、「私」と「世界」が、対になっている題材でしょう。すべてのものごとには二つの対極から成る、一面観ではなく両面から把握しようとする、もう一方の観点を見逃さない、のが霧子の考え方の基本のひとつと言えると思います。

ここでは仮に、「パースペクティヴ」と言います。

(あるいは、霧子に限らず、シャニマス 全体に言えることかも知れません。二つの相反する要素が一対になっている表現は、シャニマス の最大のテーマと言えます。私は、ここに深く文学性を感じずにはいられません。)

そのことを心のなかに暖めながら、順次に読み進めて、印象をまとめてゆきましょう。

 

先ず表題ですが、【我・思・君・思】は「みんみん」と「かなかな」に分けられます。いつも通りの日常的な、アンティーカのある夏の日を描いた「みんみん」に対し、あはれを感じさせる「かなかな」をもって調和的な情緒をとらえます。ここでは「かなかな」を掲げます。

通観すると、表題に醸し出された通り、デカルトの提唱した命題「我思う、故に我在り」がモチーフになっていることが分かります。それを本題として、三つの段落に区切ることができます。基本的な三幕構成になります。

つまり、このコミュの展開は、霧子の視点から始まる適当な状況説明を導入に、咲耶を通じてデカルトの命題を共有し、霧子の心情が現れたところで結末を迎えます。

しかし、このコミュの表題は、【我・思・我・在】ではありません。デカルトの場合はともかく、霧子はこれを【我・思・君・思】とするのです。ここには、霧子自身の考え方が現れており、それが主に語られてゆきます。

 

デカルトの「方法的懐疑」を確認しておきましょう。

デカルトが抱いていた以前からの諸学への不満は、どんなに緻密に論証を組み立てても、肝心の基盤が不確かなのであれば砂上の楼閣にすぎない、ということでした。

つまり、「現実」に於いて考えていることが確保できなければ、どんな論証も非現実的になってしまいます。

どんな疑わしさも入り込む余地のない「現実」を確保する為に、彼が考え出した措置が「方法的懐疑」です。

それは、確実なものと疑わしいものの厳密な分離です。ほんの少しでも疑わしさの残るものは、断固としてそれを偽とみなし、斥ける。「疑いを容れないもの」を基準に、徹底した懐疑をもって確実性を模索しました。

デカルトはこの方法によって、「我思う、故に我在り」という哲学の第一原理へとたどり着きました。

しかし、霧子はデカルトと少し異なる態度で、この問題を共有します。以下、冒頭から展開の順にしたがって、概観してみることにしましょう。

 

(1)

先ず冒頭の場面は、敢えて不可解な表現を多く残しています。霧子自身の視点から目覚めたところを察するに、ごく自然に、夕方の事務所の風景を「現実」として見ていることを想像し、補います。しかし、眼前には咲耶のほかに誰も居ないこと、仮眠をしようとしていたこと、なぜ眠っていたのか、「さっきの話」とはなにかなど、前半の「みんみん」からの脈絡はほとんどありません。

 

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それに加えて、咲耶の一言から、眼前の風景が「現実」であるということにも、確実性が危ぶまれてゆきます。

この時すでに、私たちは完全に宙吊りの状態にさらされます。ここに映し出されている「世界」の光景が、「夢」とも「現実」とも判明しがたくなれば、緊張感が漂い、不気味な静けさだけが鮮明に浮かび上がります。

すべてにおいて、確実性の欠如した状況が作り出されたところで、この導入は完了したと言えるでしょう。

満を持して、咲耶が問題の話を始めます。

 

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(2)

『私は今ここにいる』

現実でも夢の中でも、きっとそう思っているはずです。だとしたら、現実だと思っている世界も、そう見えているだけで、本当は夢で、すべては幻だと言われても否定できません。あらゆる認識には確実性がないのです。

デカルトは、疑いの余地をそうして認めてゆきます。

 

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(…)

 

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咲耶の一言のあとに、映し出される景色は、馴染み深いものであるはずなのに、どこか現実味のないリアリティだけが剥き出しになったような驚異として見られます。

「かなかな」というセミの鳴き声も、例外ではありません。心のありよう次第で事象は大きく変容してしまう、その象徴的なものとして、常に描写されています。

(おそらくは、前半の「みんみん」にも言えることかも知れません。心のありよう次第で、つまり、セミになりきれば「暑さ」という認識も変わりえるのではないか。私たちの心の内で「みんみん」というセミの鳴き声は、夏の「暑さ」と自然に重なり合ってしまうのです。)

 

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この「世界」は、本当は夢かも知れない。

「夢」ではないと否定できない。

「現実」ではないかも知れない。

それは、私たちの「存在」を疑うことになりかねません。シリアスな問題に否応なしに直面します。そして、少なからず、とまどいや恐怖を覚えるかと思います。

なぜなら、私たちは認識判断の内に「現実」と「夢」を自然に区別し、その上で「現実」にあるものを「存在」している、と当然のように受け容れているからです。

「現実」にあるものが、すなわち「存在」している、ということは私たちにとって自明であり、日常的にそれを疑うことはありません。「現実」は、「世界」がいつもすでにそこにあるものとして確信しているからです。

「現実」が本当は「現実ではない」のなら、そこにある「存在」も本当は「存在しない」のではないか。

私という存在も、本当は「存在しない」かも知れない。そう思えば、誰もが恐ろしいと感じるはずです。

 

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ですが、霧子はすぐに落ち着きを取り戻します。安らかに少し微笑んで、狼狽する様子はほとんどありません。

なぜ、霧子は平静でいられたのでしょうか。

シルエットになる描写は、「存在」の不確実性を表していると言えます。『私は今ここにいる』ということが、その「現実」が疑われている状態です。しかし、霧子はシルエットの状態から元に戻ります。つまり、「存在」の確実性を見出すことができた、自らの「存在」を発見することができた、ということになるのでしょうか。

実は、すでにここには「存在」への反省があるのです。

 

デカルトは、そう考えました。前述した通り、すべてが虚偽だとしても、まさに疑っている意識が確実であるならば、そのように意識している自らの「存在」を疑うことはできない。すなわち、「我思う、故に我在り」と。

おそらく霧子は、知らずしらずのうちにこの命題を共有していたのではないでしょうか。つまり、彼女には自らの「存在」を反省する心が普段からあったのでしょう。それは、彼女の性格を特徴づけている性質の一つと言えるのではないでしょうか。いわゆる、前述した考え方の「パースペクティヴ」が、これにあたります。

 

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ですが、ここで少し、デカルトの方法と霧子の考え方にすれ違いが見られます。霧子は、デカルトの方法を完全に共有しているとは言えません。なぜなら、疑っている「現実」、疑っている「世界」を、疑いえるものとして斥けている、否定しているわけではないからです。

あるいは、「現実」ではないとみなして、斥けるほど、否定するほど、疑っているわけではないからです。

 

デカルトの方法を、咲耶の言葉から見てみましょう。

「自分が信じているものの中で、疑いを容れないものはない」という疑っている意識があるからこそ、そうして意識している「わたくしは在る」と言えます。そして、それには、「この世界も、今見ているように見せられているだけかもしれない」という疑っている対象がある、「わたくしは思う」対象が常になければなりません。

デカルトはそうして「わたくしは在る」というところに「疑いを容れない」確実性を見出し、帰着するのです。

「夢」か「現実」か分からない「世界」、

「偽」か「真実」か分からない「世界」は疑いえるものとして「偽」とみなし、「真実」ではないとみなして、斥ける、否定する。この徹底した懐疑があるからこそ、「自我」の存在は確実に、より純粋なものになります。

デカルトは、「世界」の存在の可疑性に対して、自らの「自我」の存在の不可疑性を論理的に説いたのです。

 

しかし、霧子は、そんな「デカルトさん」のことを、「不思議な人」だと言います。……

 

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(3)

では、霧子が意図しているものとは何でしょうか。

ここからは、霧子の考え方が披瀝されるにしたがって、デカルトの「方法的懐疑」から離れてゆきます。

しかし、部分的には、その要素を残していると言えます。霧子の考え方は、この方法に全くそぐわないというわけではありません。デカルトは、日常的に疑いがたい自明性を疑ってゆくことで「世界」を見直し、いわゆる「パースペクティヴ」を捉えておりました。そこから、「自我」の確実性を基礎として考え始めますが、霧子は、「パースペクティヴ」に改めて立ち帰るのです。

はたして、デカルトは完全に「パースペクティヴ」を捉えられていたと言えるのでしょうか。いわば、神の視点とも言える領域に到達していたと言えるのでしょうか。

霧子は「パースペクティヴ」な、より純粋な「意識」を、いまだに、変わらずに心がけていると言えます。

「パースペクティヴ」とは、すなわち、視点の多極化であり、自然に考えられる主観性の立場から脱け出すことを意味します。そこから、「私」と「世界」の関係性を反省したところに、デカルトとの差異が現れます。

 

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「意識」とは、なにかについての意識であり、常にある対象に向かっているという性質があります。霧子は常に「世界」を「意識」しています。しかし、それは疑うというように「存在」に主題性を置いている「意識」ではありません。霧子が関心を持っているのは、「存在」の確信ではなく、「意識」がどうあるのか、にあります。つまり、「意識する存在」と「意識される存在」の相互の関係性に関心を持っているのです。その為に、「意識する存在」としての「私」と、「意識される存在」としての「世界」を、先入見の入らない純粋な意識の主観性から「パースペクティヴ」に捉えようとするのです。

「パースペクティヴ」な視野を心がける霧子にとって、「世界」すなわち「意識される存在」とは、感覚所与に経験されるすべての事象であり、物質的にも精神的にも、森羅万象のすべてが「世界」と言えます。そして、「世界」の内に存在する主観性ではなく「世界」の手前に見出す主観性こそ「パースペクティヴ」と言えます。

(少し本筋から離れますが、幽谷霧子のファン感謝祭編「ふねがでます」は、まさしく「パースペクティヴ」な彼女の考え方が、語られているコミュと言えます。)

 

「西日がきつい」ようであり、咲耶は「少しカーテンを引こうか」と提案します。しかし、霧子は引かなくて「いいの」と言います。この描写は、それが、確実性のない「偽」であったとしても、あるいは煩わしいものであったとしても、「意識される存在」として純粋に捉えようとすることを示唆するものではないでしょうか。

そんな霧子が「意識する」夏の夕方は、さまざまな思い込みや、前もってつくられた観念が重なり合ったような「日常的な世界」のものではなかったのでしょう。

そんな夏の夕方はもはや、言葉にならないのでしょう。それを、霧子は素朴に言い表します。

「とっても……夕方で……」「すごく夏……」

 

そして、「世界」すなわち「意識される存在」の中には、もちろん「咲耶さん」も含まれているのです。「私」と「世界」、そして、そこに「他者」という別の主体の「私」がいて、いよいよ「パースペクティヴ」は錯綜してゆくのですが、それは結華とのコミュである【君・空・我・空】にて、紐解かれることでしょう。

(もし仮に、この出来事が、現実である可能性は捨てきれないとしても、夕方の事務所のソファで、恋鐘や摩美々や結華に見守られながら、ひとり咲耶の肩を借りて転寝をする霧子が、いっぱいの咲耶の匂いに誘われて、見ていた夢だとしたら、と私は思いをつのらせます。)

 

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霧子にとって、現実に実在する咲耶も、夢の中にいる実在しない咲耶も、どちらも「意識される存在」であり、「世界」のものであることに間違いありません。

夢でも、夢ではなくても、咲耶が「意識される存在」であり、霧子が「意識する存在」として「意識する」ことができるのなら「嬉しいな……」と霧子は言うのです。そこには、限りなく純粋な「意識」があるのでしょう。つまり、それらの「存在」の確実性が問われない、確信に何の変化も加えることのない「意識」があるのです。

霧子の言葉で、「お祈り」と言えるでしょうか。

 

そして、デカルトの「方法的懐疑」と、霧子の考え方にある、決定的な差異がここに明らかになります。

デカルトが意図した試みは、絶対的に疑いを容れない「存在」を明らかにする為の疑うということ、すなわち「わたくしは思う」という「意識」であり、そこから、「わたくしは在る」という「存在」にたどり着きます。すなわち、【我・思・我・在】

しかし、霧子は「意識」の方法に深く着目しています。「世界」がどのようにして「私」に与えられているか「意識される」かに対して、「世界」をどのようにして「私」は捉えるのか「意識する」か、に着目します。「意識する存在」がなければ、「意識される存在」はありません。反対に、「意識される存在」がなければ、「意識する存在」はありません。霧子にとって、ここでもっとも「意識される存在」といえば「君」、つまり「咲耶」のことでしょう。「わたくしは思う」そして「君は思われる」「世界は思われる」故に「我思う」。すなわち、【我・思・君・思】


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はたして、今までの出来事は「夢」だったのでしょうか。それとも、「現実」だったのでしょうか。もはや、論ずるに足りません。「夢」も「現実」も、相互に浸透した「世界」が、ここには広がっているからです。

霧子にとって、咲耶と過ごした時間は、霧子が経験した紛れもない事実であり「存在しない」とは言えません。

「世界」があるからこそ、霧子は「世界」を「意識」することができます。「咲耶さん」がいるからこそ、霧子は「咲耶さん」に「おやすみ」を言えます。「世界」があるからこそ、霧子は「意識する存在」でいられます。それは、「デカルトさん」も例外ではありません。

「世界」があるからこそ、霧子は「霧子」でいられる、と言えるのではないでしょうか。

 

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むすび

幽谷霧子は「自分を変えたくて」、アイドルのオーディションにやって来ました。すごく心配性で、人のことばかりを考える彼女には「意識する」ことしかない為に、自分が本当は「存在しない」のではないか、という不安を抱えることも、きっと多かったのではないでしょうか。ですが、自分を変えるのではなく、そのままの彼女を、プロデューサーやアンティーカのメンバーが確かに見ていることによって、霧子は「意識する存在」であり「意識される存在」である自分を発見してゆくのです。そうした不安を克服してゆく霧子だからこそ、この問題を共有できたのではないでしょうか。このコミュには、幽谷霧子の「第一哲学」が克明に語られているのです。しかし、まだまだ「存在」への反省は終わりません。終わらないからこそ「存在」しているのです。

それから、霧子の考え方を哲学の専門分野から論ずるとすれば、フッサールの提唱した《現象学》が想起されます。さらに限定すれば、フッサールが「自然的態度」から離れて意識の「志向性」に目を向ける為に、デカルトの「方法的懐疑」を手段として生かしたところから、「志向性」が深化してゆくにつれて「方法的懐疑」から離れていった、という「現象学的還元」の道筋が、参考として非常によく見られるのではないかと思います。

これを書くにあたり、《現象学》についての様々な文献をとても参考にさせていただきました。

(さいごに、ここまでお読みくださり有難うございました。そして、幽谷霧子さんに感謝の意を捧げます。)

 

文献

デカルト方法序説 ほか』(野田又夫・井上庄七・水野和久・神野慧一郎 訳)中央公論新社。(2001)

デカルト省察 情念論』(井上庄七・森啓・野田又夫 訳)中央公論新社。(2002)

フッサールデカルト省察』(浜渦辰二 訳)岩波文庫。(2001)

新田義弘『現象学とは何か』講談社学術文庫。(1992)

新田義弘『現象学と近代哲学』岩波書店。(1995)