Beaver Board

二次創作の為の合板

幽谷霧子の方法序説

 


はじめに、この種の哲学が、デカルトにおける『方法序説』のような、ある原理が本来そこにおいて営まられるべき場所にいかにしたら到達できるのか、それが厳密には何に支えられて営まられるのかについての、方法論上の考察に基づくものになるかも知れない。そして、それは哲学の本体と同じくらい、あるいはそれ以上に重要な性質をもっている。おそらく、序論がすなわち本論になり、本論がすなわち序論になる。つまり、いつかは最終的な結論にいたるとは思いがたいような、ぐるぐる廻りつづけ、ますます話はもつれ、こんがらがり、わけが分からないものになるかも知れない。それほど、あざやかな解決は望まれない問題であることを述べておかなくてはならない。それは、いわゆる、なにがいちばんの実在と言えるのか、なにがそれを実在させるのか、その根本の意味を問う本体論の問題である。

 

本来は、アイドルという事柄の中に、すでに内包されている要素ではあるが、宗教的な性質や芸術的な性質、それらが直接的に取り上げられる彼女の場合には、とても密接に関わる問題ではないだろうか。それらを、その場限りの拠り所としてではなく、あくまで相対的な立場を守りながら、なお以て臨まれるものとして捉えている彼女だからこそ、この問題を問題とすることができるのではないだろうか。それらの事柄に対して、熱に浮かされるほど身近に感じ入るということがない彼女は、それらを目的とするよりも、ひとつの方法として考えているような趣きが感じられるのである。それは優しさ、ゆるすことのできる寛容さだろうか。ひとつの方法を絶対視することなく、相矛盾する方法を持ち合わせることは、彼女にとって、そう珍しいことではないようである。自他の区別が前提にない、分別がないということである。

 


幽谷霧子、彼女自身は、その問題を意識しているとは言いがたいかも知れないが、しかし、短絡的に結論を急ぐことはせずに、ゆっくりと、そして楽しみながら、その問題を抱えてゆこうとする心構えが確かにあるように思われるのである。それ故に、安易に夢見がちの一言では捉えきれない、真理を要求するような思想的な、哲学的な一面を垣間見るのである。彼女の中にある、強く思い込んで疑わない、たよりとする、信じる、または執着するという事柄に対して、とても厳しい精神が、われわれより遥かに広い可能性の世界を見ることのできる所以のひとつ、または、アイドルとしての彼女の魅力のひとつに繋がっているのではないだろうか。

 

ここで注意しなければならないことは、幽谷霧子自身の言葉や行動を、自然的な態度を以て見ていては、いつまでも彼女の本質を捉えることは出来ないということである。でなければ、ただ単に不思議な世界観をもった女の子としか見られなくなってしまう。あるいは、非現実的な世界観に逃げている、とも受け取ってしまいかねない。そうした自己投影をするのではなく、(いわば心理学的な)主体的な経験をしていくことが必要であり、それを目指していかなければならない。彼女自身の言葉や行動の裏にある、情動的な部分を見ていかなくてはならない。その為には、われわれの日常的な、常識的な感覚を一旦取り外してみることが重要なのである。

 

 

宗教的な、または医学的な

幽谷霧子は「お祈り」をする。宗教的な絶対性を信じているのか、しかし、幽谷霧子は医学を志している。

医学に於いて合理性を要求している。それは本来、宗教の理念とは相反する意識である。しかし、宗教に於いて非合理性も要求する。それは本来、医学や科学の理念とは相反する意識である。ひどく極端かも知れないが、この相矛盾する意識を保持するということは並大抵のことではない。目の前にいるけがをした人に対して、何かに頼るようなことはしない。しかし、自分ができることには限界があることも知らないわけではないのである。

だが彼女は、その時になれば、すぐさま合理的な行動に出るのだろう。「お祈り」ではなく、治療をするのだろう。それは「お祈り」が絶対性に向けられた意識だとしても、詰まるところ、それが心のありようであることに変わりはない、相対的な意識であることに変わりはないという気持ちのあらわれではないだろうか。

彼女にとっては、宗教的な意識である「お祈り」も、治療と同じく自分が尽くせる方法のひとつにすぎないのではないだろうか。

 

本当は……お祈りなんてなくても……

みんな……

ちゃんと……元気に……

帰ってきてくれるんです……

でも……

わたしには……

できることが……多くないから……

( “ふねがでます” より)

 


芸術的な、または人生的な

幽谷霧子は「物語性」を作る。芸術的な絶対性を信じているのか、しかし、幽谷霧子は人生を生きている。

芸術は、人生にどう関係しているのだろうか。人生があるからこそ、芸術は存在しているのか、夢は存在しているのか、物語を作り出すことができるのか。芸術はそうして、人生を前提にして存在しているのだろうか。人生がなければ、芸術はないのだろうか。ならば、芸術があろうがなかろうが、人生には関係がないのだろうか。

では人生は、現実性と合理性だけで成り立っているものだろうか。しかし、それでは、人生が完全なものになってしまうだろう。そこにあるのは機械である。人生を、人生と示すものがなければ、人生を認識することはできない。その為に、相反する理想の世界、非合理で無秩序な世界、「物語性」が要求されるのである。もちろん、それらも、絶対性に向けられた世界であるが、人生との相対的関係から逸脱するものではない。人生が芸術から離せられないように、芸術も人生からは離せられない。芸術と人生は相対的関係にあるのである。

ただのコデマリの花は、「コデマリさん」として彼女が創作する物語の中に登場する、または、もしかしたら「コデマリさん」なのかも知れないと感じている。その途端に、無機的だったコデマリの花は、彼女の代わりに、われわれには想像もつかない新しい現象になって、変わってゆくのだろう。しかし、彼女は、そのままの、ただのコデマリの花を見失うことはない。その、ただのコデマリの花を見つめたところに、「コデマリさん」がふと出てきて、それはコデマリの花に間違いはないのである。この時、もはや「コデマリさん」は、「物語性」を帯びたものでもあるが、真実にもなり得るのである。コデマリの花と「コデマリさん」を、その時その場に、同じく見ている。相互に滲透しているのである。

コデマリさん」を見ようとしてコデマリの花を見ているわけでも「コデマリさん」を見ているわけでもない。ただただ、コデマリの花を見ているし「コデマリさん」を見ている。「コデマリさん」が特別なわけではないのである。それも、心のありようであることに変わりはない、相対的な意識であることに変わりはないという気持ちのあらわれではないだろうか。

彼女にとっては、芸術的な意識である「物語性」も、人生の時間のうちにある感じ方のひとつ、方法のひとつにすぎないのではないだろうか。

 

ふふ……

お花さんたちは……話しません……

そんな気が……するだけです……

(信頼度Lv.9ボイス より)

 

 

 

そして、幽谷霧子は、それらが相対的でありふれた掴みどころのないものであることに、虚しさを感じるよりも先に、嬉しさや楽しさを感じるのである。なぜなら、それが絶対的でなくとも、彼女自身に、その時その場に感じている意識が確かにあるからである。世界があって、わたしもいて、あなたもいて、それが真実だろうと虚偽だろうとそれに向かっている、意識があるからである。

幽谷霧子は、宗教的にも芸術的にもそれを抱きつづけるが、アイドルをやりつづけるが、それはむしろ、逆説的に、自分という存在に立ち帰ることや、ある本当の常識に立ち帰る、その方法のひとつなのかも知れない。

 

(2020/06/15)

(2020/06/26)

 

 

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