Beaver Board

二次創作の為の合板

【琴・禽・空・華】を読みながら

 

 

 

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(序)

幽谷霧子のコミュを読み解いてゆくと、それは全編を通して「克服」を描いた物語なのではないかということを思います。すべてのものを二つの対極から把握する、そうして「世界」を見るひとりの人間として、いかに生きてゆくべきか。その「世界」から何を以て乗り越えてゆくべきか。そう問われているのではないでしょうか。

というのも、前回のG.R.A.D.編のシナリオから、今回の【琴・禽・空・華】に続き、これまでとは、物語における「世界」への光の当たり方が少しずつ変わってきたことに気が付きます。

すなわち、彼女が見る「世界」の描写から少しずつ浮かんでくる「幽谷霧子」という人間、という描かれ方から、彼女が見る「世界」のなかにいる一人の個人としての「幽谷霧子」という人間、という描かれ方に移行してきたのです。

それは言い換えれば、「幽谷霧子」における「芸術」の描写から、「幽谷霧子」における「人生」の描写に移行した、彼女の物語が次の章に移行したと言えるのではないでしょうか。

しかし、もしこれが「世界」を描くものだとしたら、彼女がその中で感じてゆくものも、畢竟その「断章」に過ぎないのかも知れません。

 

物語は、アイドルの仕事ともうひとつ、彼女が志している医者になるための勉学を、限られた時間や体力のなかで、どう両立してゆくべきか、いや、それとも、どちらかに決めるべきなのか、ということに問題が生じてゆきます。

ここには、彼女の「迷い」があります。それは、前述した二者が彼女のなかで入り混じった、非合理で、はっきりしない状態です。大事なのは、彼女のその「迷い」がそのまま「迷い」として、その「迷い」からなにも損なわれることなく形をなすには、「迷い」をもって乗り越えるにはどうすればよいのか、ということでしょう。

それは決して「迷い」を断ち切ったり、あるいは帳消しにする、ということには、少なくとも彼女の場合に限っては、なり得ないのです。

「迷い」はある。しかし、そこにある困難な問題をどう乗り越えてゆくべきか、どう「克服」してゆくべきかが問われているのです。その為に、今の彼女には何が足りないのでしょうか。

それはプロデューサーにとって、彼女が「迷い」の世界、観念の世界、イメージの世界、目の閉ざされた世界に深く沈潜してゆくところから、「幽谷霧子」という個人としての確固たる存在を、いかにして見出してゆくか、すくいだしてゆくか、ということが求められるのでしょう。

そして、もつれあう二人の間を調停するのは、「世界」いわゆる「自然」の存在です。

「迷い」という非常に感性的なはたらきと、「自然」という言葉にならないおもむきとは、ちょうど対応しているかのように思います。

【琴・禽・空・華】では、表題のとおり、対象としての「自然」が四つ登場しています。それらに対して何を感じているのか、二人の間には、必ず何かのすれ違いが生まれますが、そこから改めて、コミュニケーションは始まるのです。

 

 

(1)「fuku ju so」

福寿草は春先に花を咲かせることから、多くは春を告げる花と言われているそうです。福寿草にとって「春」という季節は、きっと何ものにも代え難いとても大切な季節、花を咲かせる為には欠かすことのできない時間なのだと思います。しかし、もしその福寿草に「春」がなかったとしたら、「冬」が続いてゆくとしたら、福寿草はずっと、つぼみのままなのかも知れません。

霧子は、路傍に顔を出す福寿草のつぼみを見つけます。その姿が、霧子の「迷い」に対比されています。霧子は福寿草のつぼみについて、「冬」があり、そして「春」が来ることをわかっているのだ、知っているのだ、というようなことを口にします。しかし霧子には、「春」が来るのかわからない、知らない、という思いが大きいのでしょう。プロデューサーは、けれど「春」が来ないとも限らない、「その時」はきっとあるんじゃないか、というようなことを思いますが、彼は無責任な言葉をかけたりはしません。

福寿草が花を咲かせる為には、どうすればよいのか。それはそのまま、霧子が「迷い」のなかで「克服」をするには、どうすればよいのか、ということに重なります。この福寿草にあって、霧子にはないものとはなんでしょうか。「春」を思う気持ちは、どちらにもあるでしょう。

しかし、この両者には、「春」というものへの認識の違いが明確にあります。もしかしたら春は来ないかもしれない、いや、きっと春は来るはずだ、というところにある二つの対極は、それが来ることを「分かっている」か「分からない」か、ということになるのではないでしょうか。

霧子には、「分かっている」ことがなかなかありません。それは何かを理解すること判断すること、あるいは、何かと何かを「分ける」ことが、うまくいかないのかも知れません。

霧子はいままで、「分からない」ことを感じとることに、本当に素晴らしい才能を見せてきました。しかし、ここに来て、霧子は「分からない」ことも、「分かる」ことも同じく感じとろうとするという、無理をしようとしていたのです。

 

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(2)yu hi

夕日が差し込む時間を、黄昏ということがあります。人の姿が見分けにくくなると「誰そ彼」とたずねる、というところに語源があります。この言葉どおり、夕日の橙色にまぎれて、だんだん見分けがつかなくなってゆくような霧子の姿が、こちらの不安をあおるように描かれています。

ここに現れている「夕方」「橙の時間」というのは、すでに複雑に描かれています。みんな同じ色なのに、色はひとつしかないのに、そこには混沌があるのです。霧子はそこに同調してゆきます。それはまるで、霧子のなかにある「迷い」が忘れられてゆくように、取り除かれてゆくように、霧子が「幽谷霧子」ではなくなるように、心も身体もすべて橙色に染まってゆくのです。

それは、霧子が抱える「迷い」が「橙の時間」に対応していたからではないでしょうか。この「橙の時間」は、霧子の「迷い」のメタファーになっているとも言えるかも知れません。ここには、霧子の観念の世界、精神的な世界、目の閉ざされた世界が展がっていると言えます。

霧子にとっては、橙色から連想される暖かさ、太陽に照らされた暖かさ、というよりも、おそらくみんなと同じ色をしているという温かさ、ぬくもりを感じていたのではないでしょうか。それ故に、たとえ青くても橙色でも夕日は夕日であり、あたたかいものになり得るのでしょう。感覚的に与えられるものはほとんどなく、情緒的に受け取られるものが渦巻いています。

 

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では、なぜ「橙の時間」が、そこまでの効果を持っているのでしょうか。霧子の「迷い」にも当てはまるような、「橙の時間」にひそむ深淵とは一体なんなのでしょうか。ひとつ気がつくことは、ここでは「橙色」が絶対的概念として描写されているということでしょう。

さて、「橙色」が完全に普遍的なものであったとしたらどうでしょうか。あるいは生まれた時から、ずっと「橙色」しかなかったら、われわれは永久に「色がある」と認識することは出来ないし、それが「橙色」かどうかさえ分からないでしょう。さまざまな「色がある」中に橙色があるからこそ、われわれは「橙色」を認識して、見分けることができるのです。

「橙の時間」は全部を「橙色」に染めあげます。ユキノシタさんも、ゼラニウムさんも、ソファさんも「橙色」になり、霧子も「橙色」なってゆくのです。しかし、その時すべてが「橙色」になった「橙の時間」から、「幽谷霧子」という確かな存在を、はたして見分けることが出来るでしょうか。プロデューサーはそれを見て、少し不安を覚えるのです。彼はこう云います。「霧子の色をした、霧子でいてくれればいいんだ」と、そう云って電気を点けるのです。するとそこには全部の「色がある」ようになり、 「橙色」はその効果をなくします。つまり彼は、霧子に「光」をあてたのです。

夜でもなく昼でもない、あるいは夜でもあり昼でもある。明るくもなく暗くもない、あるいは明るくもあり暗くもある。その二つの対極の、どちらにも影響を及ぼしながら、しかしどちらとも言い表すことができない、非論理的な、非合理的な、非常にアイロニカルな性質をもった境界の時間。それが「夕方」という時間であり「橙色」はそこに現れる、象徴的な色なのです。すなわち、それが「橙の時間」なのでしょう。

そして、それは奇妙にも、絶対的性質を持ち得るということが、ここに描かれているのです。

 

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(3)o t o

では、プロデューサーである自分は、霧子に何をしてあげればよいのか。彼は、霧子がふいに鳴らしたピアノの「音」から、それを悟ります。

大事なのは、霧子の「音」を代わりに「言葉」にすることではない、「分からない」ことを「分かる」ことにするのでは必ずありません。それはだれかが負っている役目のはずですが、少なくとも彼の仕事ではないのです。

彼の仕事は、霧子が自ら、自分の「迷い」を「音」に表現できるようにすること。それは、アイドルの為にステージを用意する、プロデューサーの基本的な仕事に全く共通することです。

プロデューサーはこれまで霧子の姿を見てきて、すでにどういう人なのかを知っていたからこそ、それがもどかしく、焦って「言葉」にしようとして、悩んでいたのかも知れません。

「音」というのは初めから目に見えるものではないし、「分からない」ことというのは自然に形をなしているものではありません。それは、「音」にならないかぎり存在していることすら人に伝わらないものなのです。しかし、それが「音」になれば、「分からない」ことが微妙に「分からない、けど分かるかも知れない」ことになる、何かが存在することになるはずです。「分かる」ことと「分からない」こととの間が、少しでもどこか繋がってゆくはずなのです。

「霧子の仕事は、その気持ち全部に向かい合うこと 俺の仕事は、そうできるための環境をつくること」そう云って、彼は自分の仕事を再認識します。風に誘われるように入った先に、音楽室という場所があって、そこにピアノという方法がある。いろんな気持ちを思いピアノを弾く人がいて、それを真摯に感受しようとする人がいる。奇跡的に集約されたこの時間と空間のような、まさにこの音楽室のような、そういう機会を、そういう環境を作り出すことこそ、自分が霧子にしてあげられる唯一の仕事。それというのは、アイドルの「ステージ」に限らず、ある人に思いを伝えようとする時、たとえば撮影現場であったり、学校であったりするのかも知れません。

ある「自然」が作り上げた「ステージ」で演奏する霧子を見て、プロデューサーはきっと、そう感じていたのではないでしょうか。

 

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(4)ha ka

なにかは「分からない」、ただなにかが生きていたということがどこかに残るには、それが「音」のようなものでは不十分かも知れません。しかし、それが目に見えて「分かる」ものになれば、形に残っていれば、どこかにまた、それを感じとる人がいるかも知れません。

「分からない」ことを「分かる」ものにする、それが「墓」というものの役割でしょう。

しかし、その「分からない」、なにかが確かに生きていたことが、その「墓」にすべて現れているというわけではない。だから、霧子はそれを見つけて手を合わせるのでしょう。その思いに、あとからプロデューサーも応えます。

事実そこになにがあるのか、二人には知る由もありません。しかし、そこには「分からない」なにかが、たしかに存在しているのです。では、なぜ存在していると言えるのか。そこにあるのは、おそらく事実のものとは違う「墓」に過ぎないでしょう。その姿はどこにも見えません。しかし、知る由もなかった「分からない」ものが、だれかによって思い出されるのなら、全く存在しないとは、言いがたいものでしょう。なにかが生きていたという時間と今そこにある「墓」との間にある存在が、霧子の「お祈り」によって見出され、つながってゆく。霧子は、その「お祈り」を繰り返しているのです。

なかには、ずっと「分からない」方がいいものもあるかも知れません。ここに存在することによって、痛かったり辛かったり、寒さに曝されることもある。それなら、ずっと形に残らない方がいいものも、この世の中にはあるでしょう。非常に残酷なものが埋まっていてもおかしくはないのです。(しかし、そういうところまで想像してゆくのは、彼女の美しいところでしょう。)

しかし、それでも霧子は「お祈り」をするのでしょう。なぜなら、もしここに埋まっているのが小鳥なら、土の中より、やっぱり空にいる方が良いはずです。いまはここにいなくても、確かに存在していると言えるなら、霧子は云います。「半分だけ……生きてるのかも…………」と。

それなら、まだ小鳥にも「これから」がある。もしそう言えるなら、それは霧子も同じはずです。まして生きているのだから、プロデューサーには霧子が確かに見えていて、確かに見ているのだから、なにをしなくても「幽谷霧子」が存在していることは「分かっている」ことなのです。

ホトトギスが、「春」の訪れを報せるように、鳴いていました。

 

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(5)日

土の中に深く深く根を伸ばした福寿草はいま、「春」の訪れとともに、「日」に再会します。

それは、これまでの寒い、重たい、しんどい「冬」があったからでしょう。

土の中に忘れられようとしていた小鳥はいま、なにかを大事に思う気持ちに寄せられて、「空」へ飛び立って、帰っていったかも知れません。

そして霧子も、「これから」を生きてゆこうとする時、霧子の思いは届いてゆきます。それは、プロデューサーが計画を出した、そうできるための環境を作ってくれたからでしょうか。

福寿草が「日」を仰ぐように、

小鳥が「空」へ帰ってゆくように、

霧子は「迷い」を「克服」してゆきます。

それも、ひとつの「自然」に過ぎないのです。

 

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むすび

さて、彼女がアイドルをやるか医者をやるかの別はあるにしても、彼女が「迷い」から離れることはできないのでしょうか。ですが、自分の「迷い」に対して、屈従的にも逃避的にもならず、積極的に体験して「克服」してゆこうとする姿を見る時に、「迷い」はかえって、「真実」に近づく手がかりとなるのではないか、と私には思えることがあります。それを意識しているかは分かりませんが、その心構えのようななにかを感じるのです。この【琴・禽・空・華】には、 彼女の自己にある「迷い」を中心に、さまざまな二つの対極の関係がありました。

表にまとめれば正規分布を描くでしょう。

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シャニマス全体を通しても同じく思います。

それらの「迷い」は、おそらく人の数だけ存在するのでしょう。きっと霧子に限らず、23人それぞれが、6ユニットそれぞれが持っています。

志向する先の「真実」を、シャニマスでは、「空」と形容するなら、そこにある二つのものは、やはり「翼」と言えるでしょうか。

「真実」のあらわれともとれる「空」に触れるからこそ、また自分の「翼」は強く意識されて、強く意識するからこそ、それを「克服」して、 また新しく「空」に向かってゆく。

アイドルたちの物語は、まだまだ始まったばかりなのかも知れません。

(さいごに、ここまでお読みくださり有難うございました。幽谷霧子さんに感謝の意を捧げます。)