Beaver Board

二次創作の為の合板

絶対について

 


本当のところは、書き残すことに気の進まぬ思いが拭い去れない。それは必ず、生を堰き止める行為でありつつも、生からは逃れられないことを実感として思い知らされるからである。これが恥部をさらすことになりかねない。私の中には、未だ、生きていることがそのまま弱点のように感じてしまう傾向がある。それと云うのも、ある耽美的憧憬に衝き動かされていた時分の名残であり、今にして、私はつくづく辟易していたことを認めざるを得なかった。

この頃に況して、絶対的なもの、純粋なものがこれほど輝かしく見えていたのは何故なのか、内省的であった。おそらく、それは見当の付かない問題ではなく、明白にも、それを認めるには何だか癪に障るというような問題であり、謂わば諦めることにいつまでも逡巡していただけの問題なのである。その断念や決意といったものを、終ぞ、私は持つことが出来なかったのである。

その徴候がみられたのは、相対的なる二元論の間に揺れ動いている、ともすると、躯が二つに引き裂かれる思いであった自分を発見したのがきっかけであった。それまでの私は、その純然たる絶対性に最上の価値を見出しながら、自身にもその可能性があることを信じていた。

私は羨ましい気持ちでいっぱいであった。それに対して寸分たがわず似たいという熱望だけがはっきりとみえたのである。恋をしていたのだ。絶対性は理想であり目的であった。しかし、それが恋だと分かった途端に、なかなか筋の通らない自分の宿命に気が付いたのだった。

こんなことを書いて、何分にも要領を得ないのだが、倒錯的な性的傾向を告白したところで、愚にも付かない。それに、そういうところにまで心理的な過剰補償が及んでいるとしても、決定的な要因にはなり得ない。無論、特に私の中では目立ったものだったが、それも含めて、さまざまな逆説が、私という人間的存在を作っていた。

それは矛盾であるのか、皮肉であるのか、均衡であるのか、調和であるのか、とにかく、反対の概念が接合した混沌であり、その二律背反は多岐にわたった。そして、そのどれもが単純な相対的関係に入ることはなかった。そのもっとも顕著な例に、倒錯的なものもあった、というだけに過ぎない。

太陽のような暖かさと、鉄や水のような冷たさ。

美しい智慧者の看取と、美しい無智者の経験。

そのどちらにも、純粋で綺麗なものへの肯定があり、そこには対立関係も自他の区別もなく、もはや、うらやみの心もない。何故なら、それらが一緒になったもろもろの中に、滑稽にも人間的な、憧れと、少しばかりの軽蔑と、善良なる愛情とが重なり合って、よく分からない、何か別のものになっているような気がしたからである。

この二つの世界のあいだに立っているのだが、どちらに於いても腑に落ちない思いは依然として残るのである。芸術に迷い込んだ私には、それとは不適応な、ひどく胡散臭いもの、天才ならざるもの、誠実さ、正常さ、丁寧さ、そういう俗人的良心が、実際にあったのである。

そのどうしようもない性質を、どうにか自分の力だけで統御しようと、或いは、自分を欺こうとするのだが、それこそ自分を否定していることになりかねない、純粋性の理念からかけ離れた心情であることが、どちらに寄っても、常に付き纏うのであった。統一的意識を獲得しようとすること自体が、すでに分裂した意識を持っていることの証左であり、帰着するところだったのである。

この今も、ある絶対性は燦然と輝いてそこにある。それらは何にも侵されることなく、常に、永久に、ゆるぎなく輝きつづけているのである。それが齎らす、分裂の意識、欠乏の意識、理解しがたい、名状しがたい、悲劇的な宿命の為に、私はそれを求めつづけているのかも知れない。

実はそこに、人間の尊厳があるのではないか。

 

その椅子はどうも、坐り心地が悪い。

気にすることなく坐るものもあるが、私は、どうも気が進まないのである。もっと善くなれば、永く、落ち着いて坐っていられるはずである。しかし、気休めのようではいけない。どんなことがあってもゆらがない、丈夫で、しっかりと自立した椅子が善いだろう。その為には、椅子のことをよく知る必要がある。調べてみれば、どうやら、足の長さが、右の方の足と、左の方の足で、多少ずれていて、傾いているのがおかしいのである。

右の方の足を少し短くすればバランスがとれるだろう。そうして、坐ってみる。まだ腑に落ちない。

今度は、左の方の足を少し短くすれば善くなるだろう。そうして、坐ってみる。やはり、まだ腑に落ちない。

それを繰り返していく内に、椅子の足は、どんどんなくなって崩れていってしまい、最後には椅子から落ちてしまう。

未だに、最上の形をとった椅子は、見られない。

時には、変調をもろともせず意に介さないものもある。一本の足の上に、恐るべき感覚で自立してみせるものもある。彼らは、しばしば、神秘的にうつるものである。その中には、意識的に、ある覚悟を持ったものも少なくない。だが、ある微かな風が吹いた時、いつのまにか、音も無く、彼らは消え去ってしまうのである。

果たして、彼らは迷わず幸福であったのか。

椅子の形は、千差万別、多種多様である。

私は、坐り心地よりも、最上の形をとった椅子がどんなものなのか、探し求めたい一心で、考えつづけていた。

 

 

 

 

 

 

 

感動について

 

 

感動とは、極めて不安定な状態である。

感情があわてふためき、あっちへ行ったりこっちへ行ったりして、意識は及ばず、ただ運動による熱だけがはっきりと認識できる状態である。あまりにも急激に温度は上昇するので、つかの間、幸福感でいっぱいになるが、この運動もずっと繰り返していれば、熱を持ちすぎて、身体は続かなくなるだろう。

程ほどにバランスを取らなくてはならないのである。その為に、外的な刺激に対して、今度は、こちらからそれを解放しなければならない、許容量を超えたものを欲張らずに処理していかなくてはならないのである。

だが、それにはまず、上がりすぎた熱を冷却する必要がある。激しい感動において、まずは冷静が必要になるのである。そのもっとも適当な方法が『言葉』である。

とらえどころのない、気化された感情を冷却して固体にする、形を与えたものがすなわち『言葉』である。


私は、意識的な人間である。

本来は、この一連の流れを本能的に行って、何事もなく生きている。しかし、私がこうして言葉を書き出しているのも、事を分けて論理的に解釈しているのも、逆説的に、それだけ私が感傷的な人間であるからだろう。

だから、言葉を重じて、意識を以て感動を先回りしながら、センチメンタルに過度に陥らないよう細心の注意を払って、自我意識において護身しようとするのである。言葉と向き合い、言葉を書いてゆく必要があると感じている所以はここにある。なかなか、自分本意である。

とは言いながら、人間のこころというものは全く込み入っていて、自分自身の傷つきやすさを他人に見せまいと、弱さを自嘲したり自虐したりして、自己欺瞞に陥ることも禁物なのである。寄りすぎると、また反対に大きく舵を切れば横転してしまう。意識を徹底したところにも陥りやすいあやまりがあることを忘れてはならない。

そう。この記述でさえ、他人よりもさきに自分の弱さをちゃんと認識しているということを納得させるために、わざわざ、言葉にしてまとめたものを、公共の場にそなえて置いて安心しているだけなのである。

しかし、それが不確定のものであると思うからこそ書くのである。それが誤謬であっても、再び現実を発見すれば、その度に書いてゆくより仕方ない。

だが、意識し過ぎるのも戒めなくてはならない。

いや、意識を徹底するのもただ自分が怖いだけなのだ。

社会生活のなかでは、人間は個人としては弱く限界があるために、いつも他人と結びついているのである。それは、相互に自分の弱点を提供しあい、ゆるしあうことで成立している。それは、やむをえないことである。

 

気が付いた時は、すでに極寒であった。

ただれてしまった皮膚からは、いかばかりの感覚も失われ、もと来た道を引き返そうにも、ふりしきる雪は、後ろにあったはずの足跡を消していた。かたちのない鈍色と、うすぼんやりの白だけが広がる、その先に何となく形を変えながら射し込む、じらじらと目を眩ませる光輝が、前へと足を進ませる、わずかな好奇心だった。

さて、まるで文体のはっきりしない、幼いこどもが画紙にいっぱいのクレヨンで気随気儘に色を付けていくように、私もたくさんの言葉を綴りたいと思うのだが、どうも理念的な文章がよく書けないのである。それは、ある意味では、言葉に侵されているとでも云えるだろうか。

言葉は社会性を以て、初めて意味を成すものであるが、言葉それ自体が感覚に先立ってしまっているのである。相手に伝えるための性質を見出すよりも、手段ではなく目的になってしまう、言葉それ自体の存在を重視してしまうのである。それはすべて、自分の感覚に触れるかどうかで何もかもを決めてしまう。ひどく個性的体質的なのである。しかし、この内的なものにこそ、『芸術』が深く関わっているのである。

かくも私は、これを絶対的真理が先に据えられた、ひかり輝く、ただ一つの純然たる道のように思っていた。

親切心に於いて、好意を持って人のためにすること、情愛のあるさまを、しばしば、温かさと言い表される。反して、親切ではない、非情であるさまを、冷たさと言い表される。私はこの冷たさこそ、芸術の中心的性質たり得るのではないかと考えている。それは、人間にとってマイナスの要素であるが、決して軽蔑できないものである。冷たさを無くして温かさはなく、温かさを無くして冷たさはない。人間の生を基本として、芸術を見詰めるところに美の探究があり、それこそが芸術の道である。芸術は実に、人生的問題である。また、人生は実に、芸術的問題である。どちらか一方を絶対として到達することを夢見、凝視、信奉していれば、それには及ばないのである。芸術対人生の図式が表現活動の問題である。

言葉とは、その方法のひとつなのである。

人間は相対的であり、その表現し得る芸術もまた相対的である。いずれも、絶対に融け込まないところにあるからこそ真理があり、それは人間のどんな行動に於いても到達不可能である。しかし、この諦観から、芸術は始まるのである。真理の探究は始まるのである。重要なのは、単純化に陥ることのないねばり強さを持った、誠実な意志である。相対的なる世界に、逆説的なる世界に、反自然的なる世界に、本当の美しさはあるはずである。

私が何故、言葉を必要とするのか、芸術に携わるのか、生きることに叛逆するのか、という問題は、ここに帰着する。今日ここに、私の現実があるのみである。もし仮に、また現実を発見すれば、筆をとるのであろう。

 

“ おいのり ” 感想

 ファン感謝祭編 幽谷霧子 “おいのり” “ふねがでます”

 

 

左手、それから右手を胸にあて目を閉じる。

彼女の最も印象的で象徴的な立ち姿です。

この “祈る” ということを厚く重んじる精神はどこからくるのでしょうか。

 

 

 “ おいのり ”

主に、神仏に加護や救済を請い願うことを祈願、祈禱、総じて “祈り” と言い表されます。日本語としての構成の解釈には、斎 (いつき) や生命 (いのち) などの神聖なものを指す「い」と、告 (のり) や法 (のり) などの宣言するということを指す「のり」が合わさって「いのり」であるという語義があります。つまり、口にすべきではないことを口にする、神聖な、根源的なことをことばにして響かせる、ということを表しています。

絶対的な存在に求める、という宗教的な意味合いが広く使われている言葉ですが、より純粋な “祈り” の意味としては、本能として行う人間の営み、といえます。

 

霧子がしているお祈りは、ことに清らかでなにより無垢であった印象を受けました。彼女のお祈りは、このより純粋な意味の “祈り” なのではないかと思います。

そこには、誤解してはいけないことがあります。

彼女のお祈りは、 “お願い” ではないということです。苦しい時や辛い時に神仏に助けてもらいたいと、しきりに考えている、ということは決してありませんでした。

彼女のお祈りは、 “念ずる” でもないということです。なにか決まった説法を唱えることも、それ自体に効力があると前提して考えているわけでもありませんでした。

どこまでも、彼女は、“祈る” のです。

 

霧子にとって、お祈りとは、生きていることへの実感の言葉なのかも知れません。

それは、挨拶をするように自然なことなのです。

 

 

 

 “ ふねがでます ”

心配性で、人よりも不安を抱きやすい性質の彼女らしい行為、それも、このお祈りだと思います。

霧子のお祈りは、さながら瞑想のようでした。そこには様々な癒やしがもたらされているようでした。

 

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霧子は瞼の裏に、海図を見ます。 それは、事務所と、日本と、世界と、宇宙がある、どこまでも果てしない、そんな、海図を思い浮かべます。

そこには、おそらく彼女自身がぽつんと漂う宇宙を鳥瞰しているような光景が広がっているのだと思います。 そして、広がれば広がるほどに自分という個人が本質へと近づいていき、小さく小さくなっていくのでしょう。宇宙に身を預けるような感覚があるように思います。

 

霧子は海図の上で、みんなを見送ります。心を込めて、丁寧に見送ります。

「いってらっしゃい」という言葉には「行って」そして再び「帰って来なさい」という意味があります。

彼女は、みんなが無事に帰って来てくれることへ感謝を込めて言っているように感じました。 本当は、それが大袈裟なことも彼女には分かっているのです。だから、それを人に伝えるようなことはせず、自分の中だけで、言葉にしているのでしょう。もしくは、言葉にせずにはいられないのかも知れません。

彼女の「おかえりなさい」には、そんな感謝の意が込められているように感じました。

 

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祈りによって表される言葉の数々が、彼女によって様々な意味を持ち、そして、それは彼女自身を支える大きな力となっているように感じました。

 

祈り、そして言葉を重んじるその姿勢に、私はどこか 神の国である古代の日本を彷彿とさせます。

 

 

 

“ かなかな ” 感想

【我・思・君・ 思】幽谷霧子 “かなかな”

 

 

まさか、シャニマス の世界には、こんなに味わい深い夏まであるとは思いませんでした。

この夏が終わる前に、書き留めたいと思います。

 

 

   “ かなかな ”

このエピソードは、現実と夢の矛盾した状態の肯定を、全体を通して描いていたのだと思います。

違和感や不安感などのつかみ難いもやもやした雰囲気が強烈なリアリティを持ち、意味も目的もなく、ただそこに現前しているという強い衝撃にさらされた感動です。

すなわち、シュルレアリスムの表現でした。

私個人的には、そんな前衛的な手法がシャニマスで意識的に用いられたことが嬉しくてたまりませんでした。

そういった意味でも、本当に感動したエピソードです。

 

まず、この程よい想像力が求められるボイスドラマのような形式でこれほど繊細な世界観を見事に表現してみせていたことに感嘆するばかりでした。若しくは、何が起こっているのか詳らかには語られないこの形式が、それを可能にしていたのかもしれません。

脚本も然る事ながら、それより外のあらゆる演出描写が物語の世界観にどんどん引き込んでいきました。画面UIを非表示にすると、それらが顕著に見えてきます。

“かなかな”というセミの鳴き声から始まり、夏の風情が漂う馴染みの景色や夕空、誰もいない寂しさを残す廊下や踊り場、そして、突然現れる砂嵐や猫の鳴き声、それらが全て霧子の心象風景となって不条理性を孕んだ世界を作り上げていました。

咲耶の哲学的な話題が進むにつれて、それらの風景に現実味や意味性が少しずつ欠如していく様子が丁寧に描かれていたのです。そこに映し出されている事象が混沌としていくにつれて静かな緊迫感が襲ってきました。物事から関連性が失われ、すべては脈絡がなくなり断片化 され、自己や時間までなくなり、 没入していく実感がありました。まさに、無我夢中でした。

 

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なにもおかしいところはない馴染みの風景が、気付けば非現実的なように感じられるという感覚は本当に驚異的だったのです。そして最後に、それらを解放するように、彼女たちが座っていた場所が寂れた廃墟に一変したその衝撃は、ただならないものでした。

秩序や意味性が全く排除された空間が広がったのです。

それは、本当に芸術的でした。

 

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ですが、それもつかの間、おやすみと言い交わした後にその情景は忽然と姿を消しました。

残ったのは、茜色に染まる事務所の一室に“かなかな”と響くセミの鳴き声。

 

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私は、すべてがここにあったような気がしました。

 

 

 

  “ 幽谷霧子 ”

彼女のがこの世界を包んでいました。

そうでなければ、この世界にただ畏怖するばかりだったと思います。

彼女は現実の事物や想像や幻覚にも主観や理想を決して加えず、“あるがまま”を直視する心を持っていました。それは、そこになにかの意味や解釈を求めたり、その為に疑うことをしないということです。

そのかわりに、彼女には“祈り”がありました。

今見ているさまざまが、これからも変わらずにありますように。次に会う咲耶さんが、この咲耶さんでありますように。みんなが、いつものみんなでありますように。この夏が、この夏でありますように。

この姿勢は彼女の本質であるようにも思います。もしかしたら、夢は儚く消え去ってしまうかもしれませんし、変わっていくかもしれません。ですが、おそらく彼女はそれを受け入れるのでしょう。あくまでもその祈りは、こだわっているわけでも欲しがっているわけでもない、そうあったら嬉しいというだけのことなのです。

でも、その祈りがあるからこそ、

彼女は安心して、瞼を閉じることが出来るのでしょう。

私は、幽谷霧子に強かさ優しさを覚えました。

 

 

目が覚めたら、きっとまたいつもの咲耶さんがおはようしてくれます。

これは私の想像ですが、霧子は咲耶にもたれかかりながら眠ってしまっていたんです。

咲耶さんの匂いでいっぱいだったのは、きっとそういうことだったんです。