【我・思・君・ 思】幽谷霧子 “かなかな”
まさか、シャニマス の世界には、こんなに味わい深い夏まであるとは思いませんでした。
この夏が終わる前に、書き留めたいと思います。
“ かなかな ”
このエピソードは、現実と夢の矛盾した状態の肯定を、全体を通して描いていたのだと思います。
違和感や不安感などのつかみ難いもやもやした雰囲気が強烈なリアリティを持ち、意味も目的もなく、ただそこに現前しているという強い衝撃にさらされた感動です。
すなわち、シュルレアリスムの表現でした。
私個人的には、そんな前衛的な手法がシャニマスで意識的に用いられたことが嬉しくてたまりませんでした。
そういった意味でも、本当に感動したエピソードです。
まず、この程よい想像力が求められるボイスドラマのような形式でこれほど繊細な世界観を見事に表現してみせていたことに感嘆するばかりでした。若しくは、何が起こっているのか詳らかには語られないこの形式が、それを可能にしていたのかもしれません。
脚本も然る事ながら、それより外のあらゆる演出描写が物語の世界観にどんどん引き込んでいきました。画面UIを非表示にすると、それらが顕著に見えてきます。
“かなかな”というセミの鳴き声から始まり、夏の風情が漂う馴染みの景色や夕空、誰もいない寂しさを残す廊下や踊り場、そして、突然現れる砂嵐や猫の鳴き声、それらが全て霧子の心象風景となって不条理性を孕んだ世界を作り上げていました。
咲耶の哲学的な話題が進むにつれて、それらの風景に現実味や意味性が少しずつ欠如していく様子が丁寧に描かれていたのです。そこに映し出されている事象が混沌としていくにつれて静かな緊迫感が襲ってきました。物事から関連性が失われ、すべては脈絡がなくなり断片化 され、自己や時間までなくなり、 没入していく実感がありました。まさに、無我夢中でした。
なにもおかしいところはない馴染みの風景が、気付けば非現実的なように感じられるという感覚は本当に驚異的だったのです。そして最後に、それらを解放するように、彼女たちが座っていた場所が寂れた廃墟に一変したその衝撃は、ただならないものでした。
秩序や意味性が全く排除された空間が広がったのです。
それは、本当に芸術的でした。
ですが、それもつかの間、おやすみと言い交わした後にその情景は忽然と姿を消しました。
残ったのは、茜色に染まる事務所の一室に“かなかな”と響くセミの鳴き声。
私は、すべてがここにあったような気がしました。
“ 幽谷霧子 ”
彼女の愛がこの世界を包んでいました。
そうでなければ、この世界にただ畏怖するばかりだったと思います。
彼女は現実の事物や想像や幻覚にも主観や理想を決して加えず、“あるがまま”を直視する心を持っていました。それは、そこになにかの意味や解釈を求めたり、その為に疑うことをしないということです。
そのかわりに、彼女には“祈り”がありました。
今見ているさまざまが、これからも変わらずにありますように。次に会う咲耶さんが、この咲耶さんでありますように。みんなが、いつものみんなでありますように。この夏が、この夏でありますように。
この姿勢は彼女の本質であるようにも思います。もしかしたら、夢は儚く消え去ってしまうかもしれませんし、変わっていくかもしれません。ですが、おそらく彼女はそれを受け入れるのでしょう。あくまでもその祈りは、こだわっているわけでも欲しがっているわけでもない、そうあったら嬉しいというだけのことなのです。
でも、その祈りがあるからこそ、
彼女は安心して、瞼を閉じることが出来るのでしょう。
私は、幽谷霧子に強かさと優しさを覚えました。
目が覚めたら、きっとまたいつもの咲耶さんがおはようしてくれます。
これは私の想像ですが、霧子は咲耶にもたれかかりながら眠ってしまっていたんです。
咲耶さんの匂いでいっぱいだったのは、きっとそういうことだったんです。