Beaver Board

二次創作の為の合板

SHHis について考えていること一つ二つ エッセイ風の創作

 

 

 

仮題『偶像の未来』草稿

( 旧仮題『偶像の時代』)


 あなたは、たとえば、ある夏の夜に、移動中の自動車のなかで、きらきらした都会の大通りを、ぼーっと窓から眺めているとき、なんとなく「大通りだな」と思って見ていると、ふと、いまとそっくりにおんなじことが、考えられもしない遠い遠い過去にもあったような気がしてくる。また、この自分たちの現在とは、実は遙か先の未来の夜にぞくするのではないかと思われてくる。そのとき自分のなかに、なにか大事な忘れものがあることに気がついた。夏の宵の生暖かさと街頭に広がる哀愁にみちた感覚。未知の十字路に差し掛かると見えてくる電飾と看板、ガラス越しに映ったお店の、賑やかな雰囲気。すれ違う大勢の人々の顔、またそのひとつひとつ、いま自分の隣に座って静かに息をついている彼女の、まるで能面のような顔の白さでさえ、あるいはそこに、ずっと前から自分の知っているあるものが含まれていることに気がつくと、あなたは、自分を載せた自動車が、このままはてしない無限の未来をめざして突き進んでいるのではないかと想起する。

 しかし、そのようなドラマチックなことが、そうざらに十分な意匠と万全な舞台装置をもっておこなわれえるものではない。現場監督の手腕がもとめられる。なにより役者の資格に欠けるところがあってはならない。いわゆる世の中に見られる成功や成就とは、日々の完全な筋書きの上に生じているのだ。このような形式に誤謬を感じずにはおられない彼らのような人々は、少なくとも彼らの内心において、身をかわしている。これは逃避だろうか? 否! そのような皮相的な見方をこえた、ある絶対的な、空虚なる無限の可能性の、光り輝いているあるものを、そこに見たのである。人間はつばさをもっている。時計の振り子がたえまなく左右に動いている。深い闇のかなたに青と赤の灯がしずかに明滅している。まっくらな部屋のなかを、お日さまが昇っては沈み、沈んではまた昇り、そしてまた夜が明ける。朝焼けの窓から見えた飛行機雲は、ひとしく彼らが背負うているところの、いつ果てるともなき空への追求を思わせる、鮮やかな虹色に輝いている。

      *   *   *

 今の在るがままの立場にとどまっているかぎり、ただ眼に見えるだけの幸福がのぞまれ、そこに漠然と憧れをいだく。しかしその目標をひとつでも手にしてみると、とたんにその無内容なことがはっきりする。つまり幸福の正体とは、退屈であり、それは慰安乃至同情をもって酬われる。はたして幸福とはなにか? おなじく不幸とはなにか? 自分のなかの空虚さと対話する。しかし存在が虚無でないならば、この幸福が結果として不幸であるはずはない。あなたは、ようやく本当の序章へと踏み出す好機会を得たのである。そうは考えられないだろうか?

 これで満足だというようなことはついぞ与えられない。そしてなによりその先には、とうぜんのように、あなたの変わりはてた姿をそこに示す「死」がひかえている。あなたは、その事実に絶望するだろうか? いったい自分がなにをしたというのか? これが人間の姿だというのか? 今後もその通りでよいというのか? じつにアダムの罪とは、その後の荒涼をほしいままにしている。人間は一人々々が罪のかたまりである。はたしてそのつばさは、天上へと到る可能性か、それとも地獄の使者たる徴か。

 はてしない空虚なる無限の可能性をそこに覚えるとき、あなたは、その途方もなさに不安をおぼえる。いっそのこと遣り切れない思いと共に、空中に身をあずけてしまうか、または眼の前にピストルがあったら、ということを脳裡に去来させるか。だが自己の肉体の勝手な破棄は、本来の意味における、幸福の観念には程遠い。むしろ逆戻りであることは想像にかたくない。慰謝料もおりてはこない。

 ほとんどは、その中間意見における行きつ戻りつの繰り返しである。だから、聖書の言葉をひらいても、お説教に耳を傾けても、まるで蠟をかむようなものだと云いがちである。かといって予言者の言行を写したものや、福音記者の敍述、その他いくつかの詩の上にも、おおむね見らるる美的鑑賞の高尚な対象物を出ない。まったく全人格的に権威あるものではないのである。ことに文化的社会的欲求の悉くを取り込んだ大衆社会にあって、あらゆる技術革新や文芸復興が、人々のあいだに人気を博している。世の中には、すでにそうした娯しみで溢れている。しかしそのいずれにも快適な生活の範疇を出るものはなく、ほとんどが本来的な救済のまえにおける、憂さ晴らしにほかならない。もちろん、この文章も多分に洩れない。いまこそ、救われるべく必要なのは、ひたすら前進してゆこうとする無闇な平行運動にあらず、上昇による垂直運動にあり。つまりは、人間的信念の追求にはあらず、外部への超絶的信仰に、その望みがあるとは考えられないだろうか?

(しかし、やはりさまざまなバラエティのなかから抜きん出るようなものを創造してゆくには、結局、そうした超絶的なものが必ずどこかにもとめられてくるのではないか? 傑作の条件は、それが無限の観念にまでつづいているかによるのではないか?)

      *   *   *

 まことに、それは救われるべき、幸福になるべく要素はなにものも、そこに持ってはいなかったのである、というような気づきである。ここに一箇の、あなたという空虚なる無限の可能性の存在が、俄に判明する。あなたにはつばさがあった! はたしてそのあとに、とうぜん来るべきものとはなにか? 自己の心身の脱落と喪失! 脈搏の急激な弛緩! 舞台上にあがるとき、あなたはもう舞台にいない。エラン・ヴィタルの波濤、いよいよ迫り上がって、あなたは無限の未来の世界を、いま飛び翔てゆく。じつにこの境地にあって、時間と空間の意識は崩れ去り、すべての周囲の事象は、忽ち自分の足元から辷り落ちてゆく。あなたには微かな笑みが零れる。あなたは泣くべきときに笑っている。すぐ眼の前には、天上へと導かれし祝福があるにもかかわらず、どうして掴むことができないという、この悲惨! ひとりでは、じっと辛抱していることもかなわないという、この悲惨! まとわりつく静寂のために、なによりも音楽を愛しているという、この悲惨! どうすればよいのかも判らず、あげくのはてには、笑いをおさえられないという、この悲惨! あなたは、この危機一髪にさいして、あなたという自己の真相を、はじめて確認するやも、あるいはいかに。

 ひそかに、あなたを追っていた影の存在が、その始終を、ずっと観察していた。舞台上には、ひとつの偶像があるだけにすぎない。まったく人間とは、かつてあったままの姿では、儘ならぬようである。よくもまあ、このような複雑怪奇なものを造った、神々もいたものだ。永劫に罰せられる運命にあるというのに、この行末を思い遣るときには、あまりの無知さに、または敢えてそれを顧みずに、その身を震わせながら殿堂へと参上する姿は、健気である。

 しかし、そこはまもなく、独壇場となるだろう。それは静かに静かに、またたくまに形を成すのではあるが、霧の立ち昇るがごとく、壮麗な音楽の旋律とともに、その歌唱とともに、出現するのである。

 そこには、あの連日連夜の狂躁の有り様は、もう見られない。喚声は掻き消え、誰も彼も息を殺し、その真空に生じた、形而上的結晶の耀き、すなわち「アイドル」の存在は、彼をして益々嘱目させる。

      *   *   *

音楽はとまらない。だから黙って聴いていて。駆け出す心のBPMを、抑えられない旋律を。わたし (she) がわたし (she) になるための、1000カラットの物語を。

      *   *   *

 以上は、お伽噺の一種だと思っていただければ、幸いである。しかし、お心のある方々にあっては、少しでも SHHis のうちにある、なにかを、きっと感じ取ってくださるにちがいない。だが実際には、SHHis のふたり、七草にちかさん と 緋田美琴さん が、これからどういうふうなアイドルになってゆくのかについては、私の考えの及ぶところではない。

 はじめて ふたりの W.I.N.G.編 を、ひと通り観たとき、ついに個性の確立による自己実現ではなく、自己脱却をも目標にしてゆくようなアイドルが出てきたと感激した。しかし思い違いのばあいもある。

 すなわち、自分という主体性からの脱出、または自己言及の論理からの解放による、ある物質的精神への回帰である。しかし、それは決して、いわゆるあやつり人形のような、人間性を喪失させる物質観ではない。精神の深奥に対するイメージの具現化、観念の実体化、夢想の形態化による物質観である。精神そのものであるところの物質を、研ぎ澄まし、磨き上げ、人工的極致によって昇華する奇蹟の結晶。または、ダダ乃至はシュルレアリスム の方面から言葉をかりて「オブジェ」とも言い表したい。

      *   *   *

 アイドルが、もしそういうものとしてそのままでよいのならば、ただそれだけのものになってしまう。そうなるとアイドルは「文明の利器」になる。もちろん、そうした側面はつねにある。しかしいまもとめられているのは、もっとべつのものである。わたしたちは、もしそういうものとして、ただそのままでいたのでは、死んでしまうよりほかはない。それゆえに心理的な操作として対象化をおこなう。それがいわゆる「アイドル」となり、あるいはそのような存在を、わたしたちはつねに必要とする。

 本来「宗教」がそうであるように、大切なのは、神仏や霊感の表出ではなく、つまりは存在の危機にあって、どこからそれを恢復する力がもたらされるか、なにが存在の起死回生の発動機になりうるか、という問題である。今日見らるる宗教のごときは、そのほとんどが対象化のための想像力をすべてある民主制に委ねている。多くのばあい、その想像力はフィクションのなかにのみ生きている。しかしそれが現実に直接交渉してくることはきわめて少ない。

 想像力は、たえずどこかに向かって波打っている。それは複合的かつ輻湊的に、なにかを取り込んだり、なにかを引きずったりして、つねにその先に光を放っている、あるものを追っている。つまり、可能性にあふれている。それがひとつにまとまると、あるイメージとなり、それが対象化される。

 対象化されるものには、たとえば神とか仏とか、鬼とか悪魔とか、または超越的な何かが目立つが、実際にはそのまえに、現在の自分の存在より、もうひとつ、べつの存在、代わりの存在が、そこに想定されているはずである。しかし、それを模索したり表現したりすることに夢中になると、知らず知らずのうちに理屈っぽくなってしまいがちである。そこにあったはずの光はいつのまにか見失われている。忘れてはいけない。それが自分のまえのもうひとりの自分であり、その対のなかに光があったことを。

      *   *   *

 ここにいっそうの努力と機会が伴うならば、と、いつまでもそんなことを云っている。だが自分には落ち着いて考えていられるような暇はない。しかしそれだけでこの現状がなんとか打開されるだろうと本気で思っているのか? いまだに神の代理たらんとする人間主義の誇大妄想のなかに答えを見出そうとしている。人間らしいといえばその通りだろう。

 おもえば、この人間らしさという謂には、おのずから相反する二つの意味が含まれている。ひとつは自然的存在のなかにいまもひらめく道徳律において善悪を判断するところの崇高な部分に。もうひとつはある事態から同情をもって迎えられるところの、生まれついての欲望を基台とする本能の部分に。

 この天使と悪魔の板挟みに捲き込まれたような、絶対と相対の対立のなかに自身との格闘をえんじている存在こそが、すなわち神のまえに救いをもとめさ迷いつづける人間という種である。葛藤と責苦の只中に、なお「死」の運命によっておびやかされ、いまや神とのさかいに設けられた隔たりは尖鋭化をいや増し、為す術もなく罪の汚名をかぶせられる。この境涯にあって、幾度となく自己の限界のうちに突っ撥ねられるが、その接触点には、電気が逬る。つまりこの本来的苦悩と面接する現在意識にあったのは、すなわちどんなに失敗がつづいて困難な状況にあったとしても、なお幸福は得られると信ずる、謙虚さと勤勉さではなかったか? この苦悩のうちにこそ、ある「感動」が見出されるのではないか?

 いまの今まで思いもかけていなかったイデアが、ここにはずっとあったのだ。いわく「アイドル」、この存在に、自分はまだ気がついていなかった!

      *   *   *

 このとき、もはや「生きるべきか、死ぬべきか」ということは問題ではなくなる。かわりに、それが「どこから来て、どこへ行くのか」というテーマに移り変わる。存在の不安などはなんでもない。ただ存在がどうあるかが問題なのだ。存在がいつか無くなってしまうことへの不安ではなく、むしろ存在がいつまでも終わらないことへの不安なのである。

 存在の基盤は「アイドル」にある。そして、そこから自分自身の存在をそこに先駆けてゆくことが、まさに為すべきことである。肉体はひとつの過程にすぎない。つまり、それは自己の神聖化ではない。それは対象化ではなく、いうなれば対消滅なのだ。

 もうひとつのべつの存在として、「アイドル」が把握されたあとに着手されてゆくべきは、こうした「アイドル」の実現である。それは全体のすべてをとらえているわけではない。なぜならそれが自分のイメージのなかのものであるかぎり、そこには最も肝心な自分自身の存在が欠けているからである。

 いま、この存在を、その最後の扉にいたるまで、自分のなかの先端にすべてかけなければならない。ここに投じられるもの、つまり存在にたったひとつ残されているものこそ、すなわち「死」である。「死」は、いまや幾千夜にわたる友であり、伴侶である。なぜならそれがなければ、人生は灰色のまま「感動」による生彩をもつことはなかったからである。「死」と向かってゆこうとする、モラルこそ、「アイドル」の実現のための薫陶だったのである。

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 このような精神性には、禁欲的な傾向が見られるのだろうが、むしろ、そこにあるのは制限の排除である。類型もなく、評判もなく、ただひとつのことに忠実であるというだけなのだ。しかし、純粋性を有する人々の特徴として、生活を考慮に入れない、ということがあげられる。生活には安定できない。なぜならそこに適当な対象を見出すことができないからである。それゆえに苦労も身に付かない。だがいつも何かに悩み、反省し、何かを為そうとしている。彼らの周りには、いつも見えない何かがある。

 生きているあいだ、だれしもその周りにつながりをもっている。それは簡単に消えるものではない。なぜならそれが、いま自分という存在がここにあるという根拠だからである。もし途中でそのつながりが断たれているとしたら、その前とその後の連絡はつかない。途切れていないからこそ、自分とはまた昔ながらの自分であり、今日とは、昨日からの今日なのである。このような因果律は、おぼろげな認識としてはわかるが、そのことに確信が持てるときもあれば、ある時は、そう思われないときもある。

 自分という存在とはなにか? これを自分という個人のなかにのみ問うているようでは、いつまでもその存在に気がつくことはできない。このとき自分は、ある「時間」の観念にとらわれている。それはせっかちなところからきている。そこには「現在」しかない。「未来」がなくなっている。けっきょく「死」とは「無」であり、「終わり」なのである。そのため「現在」がいつまでもつづくことを希い、それを失うことを、なるべく惧れるのである。

 しかし、それっきりどこにも居なくなってしまうということが、はたして本当にあり得るだろうか。「無」とは、つねに期待するようなものは何もないという失望を代弁するための言葉である。しかし「無」は、いまも「無」としてその消息をたたえている。つまりは、そこに存在するものとして、それ以外の、時間や空間のなかにとらえきれないものを、言葉にしたのが、すなわち「無」なのである。

 いまここに世界が存在し、また自分という存在がそこに疑われないかぎり、ふと立ち止まって何かを考え込ませたり、何かを思い出させたりするようなあるものが、必ずそこを通過しているはずである。そのことを意識するとき、自分という存在のうらに広大無辺の背景がひろがっていることを、はじめて自覚する。すなわち永遠不滅の概念である。または永遠の接線に近づいている。何かにおどろいたり、きれいだなと思っているうちは、そこに「時間」はない。「時間」など、本当はないのではないか?

 わたしたちが「現在」を意識するとき、それは他に対して、または自分自身に何かを語りかけているときである。この意識には、あらゆる過去の時間、すなわち「記憶」が基礎となっている。これはすでに「現在」ではない。しかし、過去とは「現在」の一瞬々々のつらなりとして、どこまでも溯ることができる。どこかに終着点があったとしても、それははてしなく引き伸ばされてゆくのである。そして、未来とは、これらを前方に反射させたものである。

 このような「現在」が、「無限」に深まるとき、わたしたちは「どこから来て、どこへ行くのか」という問題に、あらためて差し掛かるのである。

      *   *   *

 これまで、シャニマス のイベントコミュ では、たびたび「時間」の概念がモチーフとして見られてきた。最初に意識しはじめたのは、イベントコミュ『アジェンダ283』からである。

 河原でのゴミ拾いの最中、そこに捨てられているさまざまな事物のなかには、ある時間が流れていることに気がつく。それらの時間の意識は、アイドルによって解釈のしかたはさまざまであり、そこには新たに登場した ノクチル の独特な時間の感覚も、その議題のうちのひとつにあったのかもしれない。

 シャニマス において、主に語られる「時間」の概念は、いつも物質化されている「時間」である。始まりがあり終わりがあるような、大きな川の流れのような時間ではなく、また、フィクションのなかに安易に想像される、停まっている時間でもない。世界が時間の上にのっかっているのではなく、世界とともに時間が存在するのである。時間がそこにあるのではなく、部屋という「時間」がある、または部屋そのものが「記憶」であり「思い出」なのだ。あらゆる事物が、それ自体として「記憶」であり、「思い出」として、そこに光っているのである。

 「時間」そのものが、そこにあるわけではない。しかし意識のうちに「時間」は必ず関与している。科学的に「時間」を測ることはむずかしいことではない。秒針の歩みはひとつひとつが独立している。次から次へと流れてゆく。だが、そのたびに流れた「時間」はどこかに葬り去られている。ここでは「未来」を考えることはできない。では、意識は、どういうふうに「時間」をとらえているのか?

 すなわち、どこからが「過去」で、どこからが「現在」で、どこからが「未来」なのか?

 意識とは「現在」にある。「過去」から「未来」に移っているわけではなく、つねに「現在」にあるのである。そのときの「現在」において「過去」と「未来」があり、それが「現在」をつくっている。でなければ、「現在」を意識することはできない。「過去」は忘却され、ただ「未来」を期待しているだけであったら、「現在」とは、単にそこにあって当たり前のものとなるだろう。しかし、いまここに「死」をまえにして、自分自身のうらに語りかけてくるものがある。それは、いつか取り戻されるべきところの、ある懐かしき「背後からの声」であり、または、いつか取り戻されるにちがいないという、なんともすがすがしき「前方からの声」である。

      *   *   *

 ある夏の夜のこと、都会の大通りの景色は、ただ透明に、そのまま「無限」に深まり、通ったことのない道も、見たことのないお店も、行きちがう自動車も、無数の人影も、みんなそこから見えてくる。あの移動中の車のなかにあった、不思議な情緒は、そもそもなんだったのだろう? しばらくのあいだ自分を駆り立てていたあの追及と焦燥をわすれて、まるでそのときは「永遠」に感じられたのである。

 そこにおいて、ようやく自分という存在は、それ以外の事物との、本当の接近を為し得るにいたる。まことに、この孤独な存在にあって、はじめて、「愛」を規定し得るのである。自分よりほかの存在のうえに、はじめて生きることができるのである。

 わたしたちが、いま幸福のためにはじめられるのは、個人的な「愛」しか、そこにはない。まずは、おのおのが自分という存在に、今までとはまったくちがう考えかたをもつ必要があるのだろう。しかし具体的な方法については、ここでは云えない。

 ダイヤモンドを見つけるには、苦心と工夫がつきものである。それはただ郊外のひとすみにあって、獲得され得るものではない。しかしそれを忍びさえすれば、必ずその反対のものとして、ある気づきを得ることはできる。これは「宿命」なのだろう。

 

 

宗教とは直接な事物の流転の彼方にあり、背後にあり、又内部にあるもの。幻視である。実在であって、しかも実現を待っている或る物——最も遠い可能性であって、しかも現実の事実中の最大の事実である或る物——去来する総てのことに意味を与え、しかもわれわれの理解では捉えにくい或る物——それを有することが至高の善であって、しかも到達しがたい或る物——究極の理想であると共に、望みなき探索である或る物——この或る物へのヴィジョンである。

 

 七草にちか の「アイドル」は、「郷愁」に。
 緋田美琴 の「アイドル」は、「感動」に。

 

 

 

 

 

シャニマス ・アフォリズム

 

 

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シャニマス イベントコミュ金言集 及び抜粋

2022.2.28

 

 

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『みんな特別だし、みんな普通の女の子だ』 
( Catch the shiny tail / 第5話 私の場所 )

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『そうですね、彼女たちはきっと
 魔法使いや、妖精みたいに
 たくさんの人を幸せにすることが出来る——
 アイドルって、きっと
 そういう『魔法』が使えるんです』
( [MAKING] スノー・マジック! / エンディング [edit] )

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『夜の太陽にもなりたいなぁって思うんだけど、どうかな?
 太陽の光は元気が出るけど、
 たまにそれだけが正しいようにも見えるから
 夜のすみっこに置いてもらえるような
 やさしい光にもなりたいなーって』
( 【ああひかりよ】八宮めぐる / よみちのみちしるべ )

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『——迷った方がいい時もきっとある』
( 階段の先の君へ / 第5話 ファイ・オー! )

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『こうやって、ちっちゃな声でおっきな声を出したり
 おっきな声でちっちゃな声を出したり……
 つらいことも悲しいことも
 全部ひっくり返して体当たりしているうちに——
 何かいいことが、一つでも
 やってくるといいなーって
 思ってます……!』
( 【ドゥワッチャラブ!】桑山千雪 / ひっくり返して生きていく )

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『カメラが写すものはリアルだろうか
 カメラが写さないものはリアルだろうか』
( ストーリー・ストーリー )

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『生きてることは……
 物語じゃ……ないから……』
( ストーリー・ストーリー / エンディング 家の物語の話 )

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『——暗い時ほど、光は綺麗に見えるんですね』
( くもりガラスの銀曜日 / 第5話 思考を煮詰めたような味 )

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『未来を考えることは……
 過去を考えることに……似ている……』
『ゆっくりと昔に戻っていくための未来も、
 あるかもしれないものね』
( アジェンダ283 / 第5話 会うことのない誰かのために )

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『分別してたら……
 つながった……!』
『ふふっ
 燃えるいのおかげね……!』
( アジェンダ283 / 第6話 つながるがつながる )

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『横に広がる部屋、縦に広がる時間……
 ここはもう、世界じゃない』
( 明るい部屋 / エンディング La chambre libre )

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『0時0分00000秒きっかりに
 飛んだら、どうなるか
 0時0分00000秒きっかりに
 飛んだら
 きっと
 すべては消えて
 ほんとの世界になる』
( 海へ出るつもりじゃなかったし / 第2話 風のない夜 )

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『なんかに似てた
 なんか、すごく最近見て
 すごく昔から、知ってるものに
 海に出るつもりじゃ
 なかったけど
 海に出てしまったから
 風を探している
 そういう夢に』
( 海へ出るつもりじゃなかったし / エンディング うみを盗んだやつら )

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『噂よりも
 ステージを見てほしい
 あたしはそこにいるから
 そして
 あたしたちがいるところにステージはあるんだ
 #ストレイライト』
( 【いるっしょ!】和泉愛依 / 愛のおはなし )

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『……雪は冷たいけど、あったかいんだ』
『あったかい雪もあるんだね』
『ハクチョウなら、あたたかい雪も
 もっと色んな雪も、知ってるのかもしれないね』
( 【Scoop up Scraps】八宮めぐる / ハクチョウとクマのポルカ )

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『ずっとこのままでいたい……
 けど……』
『う、うん……
 ずっと、このまま……いるなら……』
『ずっとこのままじゃ……
 いれない……』
( アンカーボルトソング / 第6話 のびる、びる )

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『愛は切り崩すものではないよ
 自分のために、自分でそれを求めに行ってくれないか』
『どんな天気の日も、カモメに餌を与え、
 そしてあなた自身がそれを受け取ってほしい』
『あなた自身への愛として』
( アイムベリーベリーソーリー / エンディング あい )

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『……不思議だよね
 繰り返しばっかりのつまらない時間を
 ……生きていたいって
 思っているみたいだから
 不思議だね、ニンゲンって』
( 【死神リポート】七草にちか / ▼観察 )

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『走ってほしい
 ……もし、自分のために
 走ってるんだとしても
 頑張って漕げば漕ぐだけ
 誰かの笑顔に近づいて……
 だからまた、
 自分のために走ろうっていうふうに思えたら……
 それは誰かのためになるのかな』
『————ひとりひとり、みんなになってくれ』
( はこぶものたち / エンディング 運ぶ人 )

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* * *


シャニマスの紡ぎだす言葉は、ときとして翼をもつ。それらの言葉は、かならず、ある逆説を孕み、ある空虚に満ち、あるリアリズムが十分に盛り込まれた、なんともふしぎな文体をあらわしている。
その言葉に、ひとたび出会えば、私たちは瞬時にせよ、私たちのなかにある虚無性に気づかされ、その意識の飛躍をもって世界の深淵に直面してしまう。
いま応答しなければならない。

地の底から天の果てまで、私たちのなかをスーッとつきぬけてゆくような、ある清々しさ。
かつて旧友の部屋で交わされた議論。あの行き詰まった議論に必要とされていたのは、じつは、このような言葉のなかにある、内奥の論理学ではなかったか?

 

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【琴・禽・空・華】を読みながら考えたこと

 

 

 

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(序)

幽谷霧子のコミュを読み解いてゆくと、それは全編を通して「克服」を描いた物語なのではないかということを思います。すべてのものを二つの対極から把握する、そうして「世界」を見るひとりの人間として、いかに生きてゆくべきか。その「世界」から何を以て乗り越えてゆくべきか。そう問われているのではないでしょうか。

というのも、前回のG.R.A.D.編のシナリオから、今回の【琴・禽・空・華】に続き、これまでとは、物語における「世界」への光の当たり方が少しずつ変わってきたことに気が付きます。

すなわち、彼女が見る「世界」の描写から少しずつ浮かんでくる「幽谷霧子」という人間、という描かれ方から、彼女が見る「世界」のなかにいる一人の個人としての「幽谷霧子」という人間、という描かれ方に移行してきたのです。

それは言い換えれば、「幽谷霧子」における「芸術」の描写から、「幽谷霧子」における「人生」の描写に移行した、彼女の物語が次の章に移行したと言えるのではないでしょうか。

しかし、もしこれが「世界」を描くものだとしたら、彼女がその中で感じてゆくものも、畢竟その「断章」に過ぎないのかも知れません。

 

物語は、アイドルの仕事ともうひとつ、彼女が志している医者になるための勉学を、限られた時間や体力のなかで、どう両立してゆくべきか、いや、それとも、どちらかに決めるべきなのか、ということに問題が生じてゆきます。

ここには、彼女の「迷い」があります。それは、前述した二者が彼女のなかで入り混じった、非合理で、はっきりしない状態です。大事なのは、彼女のその「迷い」がそのまま「迷い」として、その「迷い」からなにも損なわれることなく形をなすには、「迷い」をもって乗り越えるにはどうすればよいのか、ということでしょう。

それは決して「迷い」を断ち切ったり、あるいは帳消しにする、ということには、少なくとも彼女の場合に限っては、なり得ないのです。

「迷い」はある。しかし、そこにある困難な問題をどう乗り越えてゆくべきか、どう「克服」してゆくべきかが問われているのです。その為に、今の彼女には何が足りないのでしょうか。

それはプロデューサーにとって、彼女が「迷い」の世界、観念の世界、イメージの世界、目の閉ざされた世界に深く沈潜してゆくところから、「幽谷霧子」という個人としての確固たる存在を、いかにして見出してゆくか、すくいだしてゆくか、ということが求められるのでしょう。

そして、もつれあう二人の間を調停するのは、「世界」いわゆる「自然」の存在です。

「迷い」という非常に感性的なはたらきと、「自然」という言葉にならないおもむきとは、ちょうど対応しているかのように思います。

【琴・禽・空・華】では、表題のとおり、対象としての「自然」が四つ登場しています。それらに対して何を感じているのか、二人の間には、必ず何かのすれ違いが生まれますが、そこから改めて、コミュニケーションは始まるのです。

 

 

(1)「fuku ju so」

福寿草は春先に花を咲かせることから、多くは春を告げる花と言われているそうです。福寿草にとって「春」という季節は、きっと何ものにも代え難いとても大切な季節、花を咲かせる為には欠かすことのできない時間なのだと思います。しかし、もしその福寿草に「春」がなかったとしたら、「冬」が続いてゆくとしたら、福寿草はずっと、つぼみのままなのかも知れません。

霧子は、路傍に顔を出す福寿草のつぼみを見つけます。その姿が、霧子の「迷い」に対比されています。霧子は福寿草のつぼみについて、「冬」があり、そして「春」が来ることをわかっているのだ、知っているのだ、というようなことを口にします。しかし霧子には、「春」が来るのかわからない、知らない、という思いが大きいのでしょう。プロデューサーは、けれど「春」が来ないとも限らない、「その時」はきっとあるんじゃないか、というようなことを思いますが、彼は無責任な言葉をかけたりはしません。

福寿草が花を咲かせる為には、どうすればよいのか。それはそのまま、霧子が「迷い」のなかで「克服」をするには、どうすればよいのか、ということに重なります。この福寿草にあって、霧子にはないものとはなんでしょうか。「春」を思う気持ちは、どちらにもあるでしょう。

しかし、この両者には、「春」というものへの認識の違いが明確にあります。もしかしたら春は来ないかもしれない、いや、きっと春は来るはずだ、というところにある二つの対極は、それが来ることを「分かっている」か「分からない」か、ということになるのではないでしょうか。

霧子には、「分かっている」ことがなかなかありません。それは何かを理解すること判断すること、あるいは、何かと何かを「分ける」ことが、うまくいかないのかも知れません。

霧子はいままで、「分からない」ことを感じとることに、本当に素晴らしい才能を見せてきました。しかし、ここに来て、霧子は「分からない」ことも、「分かる」ことも同じく感じとろうとするという、無理をしようとしていたのです。

 

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(2)yu hi

夕日が差し込む時間を、黄昏ということがあります。人の姿が見分けにくくなると「誰そ彼」とたずねる、というところに語源があります。この言葉どおり、夕日の橙色にまぎれて、だんだん見分けがつかなくなってゆくような霧子の姿が、こちらの不安をあおるように描かれています。

ここに現れている「夕方」「橙の時間」というのは、すでに複雑に描かれています。みんな同じ色なのに、色はひとつしかないのに、そこには混沌があるのです。霧子はそこに同調してゆきます。それはまるで、霧子のなかにある「迷い」が忘れられてゆくように、取り除かれてゆくように、霧子が「幽谷霧子」ではなくなるように、心も身体もすべて橙色に染まってゆくのです。

それは、霧子が抱える「迷い」が「橙の時間」に対応していたからではないでしょうか。この「橙の時間」は、霧子の「迷い」のメタファーになっているとも言えるかも知れません。ここには、霧子の観念の世界、精神的な世界、目の閉ざされた世界が展がっていると言えます。

霧子にとっては、橙色から連想される暖かさ、太陽に照らされた暖かさ、というよりも、おそらくみんなと同じ色をしているという温かさ、ぬくもりを感じていたのではないでしょうか。それ故に、たとえ青くても橙色でも夕日は夕日であり、あたたかいものになり得るのでしょう。感覚的に与えられるものはほとんどなく、情緒的に受け取られるものが渦巻いています。

 

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では、なぜ「橙の時間」が、そこまでの効果を持っているのでしょうか。霧子の「迷い」にも当てはまるような、「橙の時間」にひそむ深淵とは一体なんなのでしょうか。ひとつ気がつくことは、ここでは「橙色」が絶対的概念として描写されているということでしょう。

さて、「橙色」が完全に普遍的なものであったとしたらどうでしょうか。あるいは生まれた時から、ずっと「橙色」しかなかったら、われわれは永久に「色がある」と認識することは出来ないし、それが「橙色」かどうかさえ分からないでしょう。さまざまな「色がある」中に橙色があるからこそ、われわれは「橙色」を認識して、見分けることができるのです。

「橙の時間」は全部を「橙色」に染めあげます。ユキノシタさんも、ゼラニウムさんも、ソファさんも「橙色」になり、霧子も「橙色」なってゆくのです。しかし、その時すべてが「橙色」になった「橙の時間」から、「幽谷霧子」という確かな存在を、はたして見分けることが出来るでしょうか。プロデューサーはそれを見て、少し不安を覚えるのです。彼はこう云います。「霧子の色をした、霧子でいてくれればいいんだ」と、そう云って電気を点けるのです。するとそこには全部の「色がある」ようになり、 「橙色」はその効果をなくします。つまり彼は、霧子に「光」をあてたのです。

夜でもなく昼でもない、あるいは夜でもあり昼でもある。明るくもなく暗くもない、あるいは明るくもあり暗くもある。その二つの対極の、どちらにも影響を及ぼしながら、しかしどちらとも言い表すことができない、非論理的な、非合理的な、非常にアイロニカルな性質をもった境界の時間。それが「夕方」という時間であり「橙色」はそこに現れる、象徴的な色なのです。すなわち、それが「橙の時間」なのでしょう。

そして、それは奇妙にも、絶対的性質を持ち得るということが、ここに描かれているのです。

 

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(3)o t o

では、プロデューサーである自分は、霧子に何をしてあげればよいのか。彼は、霧子がふいに鳴らしたピアノの「音」から、それを悟ります。

大事なのは、霧子の「音」を代わりに「言葉」にすることではない、「分からない」ことを「分かる」ことにするのでは必ずありません。それはだれかが負っている役目のはずですが、少なくとも彼の仕事ではないのです。

彼の仕事は、霧子が自ら、自分の「迷い」を「音」に表現できるようにすること。それは、アイドルの為にステージを用意する、プロデューサーの基本的な仕事に全く共通することです。

プロデューサーはこれまで霧子の姿を見てきて、すでにどういう人なのかを知っていたからこそ、それがもどかしく、焦って「言葉」にしようとして、悩んでいたのかも知れません。

「音」というのは初めから目に見えるものではないし、「分からない」ことというのは自然に形をなしているものではありません。それは、「音」にならないかぎり存在していることすら人に伝わらないものなのです。しかし、それが「音」になれば、「分からない」ことが微妙に「分からない、けど分かるかも知れない」ことになる、何かが存在することになるはずです。「分かる」ことと「分からない」こととの間が、少しでもどこか繋がってゆくはずなのです。

「霧子の仕事は、その気持ち全部に向かい合うこと 俺の仕事は、そうできるための環境をつくること」そう云って、彼は自分の仕事を再認識します。風に誘われるように入った先に、音楽室という場所があって、そこにピアノという方法がある。いろんな気持ちを思いピアノを弾く人がいて、それを真摯に感受しようとする人がいる。奇跡的に集約されたこの時間と空間のような、まさにこの音楽室のような、そういう機会を、そういう環境を作り出すことこそ、自分が霧子にしてあげられる唯一の仕事。それというのは、アイドルの「ステージ」に限らず、ある人に思いを伝えようとする時、たとえば撮影現場であったり、学校であったりするのかも知れません。

ある「自然」が作り上げた「ステージ」で演奏する霧子を見て、プロデューサーはきっと、そう感じていたのではないでしょうか。

 

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(4)ha ka

なにかは「分からない」、ただなにかが生きていたということがどこかに残るには、それが「音」のようなものでは不十分かも知れません。しかし、それが目に見えて「分かる」ものになれば、形に残っていれば、どこかにまた、それを感じとる人がいるかも知れません。

「分からない」ことを「分かる」ものにする、それが「墓」というものの役割でしょう。

しかし、その「分からない」、なにかが確かに生きていたことが、その「墓」にすべて現れているというわけではない。だから、霧子はそれを見つけて手を合わせるのでしょう。その思いに、あとからプロデューサーも応えます。

事実そこになにがあるのか、二人には知る由もありません。しかし、そこには「分からない」なにかが、たしかに存在しているのです。では、なぜ存在していると言えるのか。そこにあるのは、おそらく事実のものとは違う「墓」に過ぎないでしょう。その姿はどこにも見えません。しかし、知る由もなかった「分からない」ものが、だれかによって思い出されるのなら、全く存在しないとは、言いがたいものでしょう。なにかが生きていたという時間と今そこにある「墓」との間にある存在が、霧子の「お祈り」によって見出され、つながってゆく。霧子は、その「お祈り」を繰り返しているのです。

なかには、ずっと「分からない」方がいいものもあるかも知れません。ここに存在することによって、痛かったり辛かったり、寒さに曝されることもある。それなら、ずっと形に残らない方がいいものも、この世の中にはあるでしょう。非常に残酷なものが埋まっていてもおかしくはないのです。(しかし、そういうところまで想像してゆくのは、彼女の美しいところでしょう。)

しかし、それでも霧子は「お祈り」をするのでしょう。なぜなら、もしここに埋まっているのが小鳥なら、土の中より、やっぱり空にいる方が良いはずです。いまはここにいなくても、確かに存在していると言えるなら、霧子は云います。「半分だけ……生きてるのかも…………」と。

それなら、まだ小鳥にも「これから」がある。もしそう言えるなら、それは霧子も同じはずです。まして生きているのだから、プロデューサーには霧子が確かに見えていて、確かに見ているのだから、なにをしなくても「幽谷霧子」が存在していることは「分かっている」ことなのです。

ホトトギスが、「春」の訪れを報せるように、鳴いていました。

 

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(5)日

土の中に深く深く根を伸ばした福寿草はいま、「春」の訪れとともに、「日」に再会します。

それは、これまでの寒い、重たい、しんどい「冬」があったからでしょう。

土の中に忘れられようとしていた小鳥はいま、なにかを大事に思う気持ちに寄せられて、「空」へ飛び立って、帰っていったかも知れません。

そして霧子も、「これから」を生きてゆこうとする時、霧子の思いは届いてゆきます。それは、プロデューサーが計画を出した、そうできるための環境を作ってくれたからでしょうか。

福寿草が「日」を仰ぐように、

小鳥が「空」へ帰ってゆくように、

霧子は「迷い」を「克服」してゆきます。

それも、ひとつの「自然」に過ぎないのです。

 

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むすび

さて、彼女がアイドルをやるか医者をやるかの別はあるにしても、彼女が「迷い」から離れることはできないのでしょうか。ですが、自分の「迷い」に対して、屈従的にも逃避的にもならず、積極的に体験して「克服」してゆこうとする姿を見る時に、「迷い」はかえって、「真実」に近づく手がかりとなるのではないか、と私には思えることがあります。それを意識しているかは分かりませんが、その心構えのようななにかを感じるのです。この【琴・禽・空・華】には、 彼女の自己にある「迷い」を中心に、さまざまな二つの対極の関係がありました。

表にまとめれば正規分布を描くでしょう。

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シャニマス全体を通しても同じく思います。

それらの「迷い」は、おそらく人の数だけ存在するのでしょう。きっと霧子に限らず、23人それぞれが、6ユニットそれぞれが持っています。

志向する先の「真実」を、シャニマスでは、「空」と形容するなら、そこにある二つのものは、やはり「翼」と言えるでしょうか。

「真実」のあらわれともとれる「空」に触れるからこそ、また自分の「翼」は強く意識されて、強く意識するからこそ、それを「克服」して、 また新しく「空」に向かってゆく。

アイドルたちの物語は、まだまだ始まったばかりなのかも知れません。

(さいごに、ここまでお読みくださり有難うございました。幽谷霧子さんに感謝の意を捧げます。)

 

 

 

 

 

自作を回顧して綴る 2021.01.18

 

 

 

シャニマスでなければ、私は二次創作をはじめることはありませんでした。どんなに深い発想も受け容れてくれるような、とても自由な領域が与えられたような気がしたのです。

こと更に衝撃を受けたのは【我・思・君・思】という中の「かなかな」です。それが自分の二次創作をする、直接のきっかけになりました。

もっとも、自分の書いたものが二次創作と呼べるかは、いまだにはっきりしませんが、……

 

『病室』というのは私の処女作で、いま思えば、書き上げられたことが奇跡のような作品です。 最初の構想は、「長閑な療養所に勤める看護婦の霧子さん」と「海に遠く憧れを抱く少女」というだけで、内容や構成はほとんど考えず、あとは今まで読んできた文学作品を思い出しながら筆にまかせて書いてゆきました。結末は意図せず、その都度、ぼんやり考えていたのは、日本の昔話のような「あわれ」という概念、「成就」よりも「循環」してゆくという構成が、霧子の物語にぴったりなのではないかということです。「何も起こらなかった」ということが生じる、「無」が生じる、ということを意識して最後は書いていました。主に参考として傍にあったのはロマン派の文学、堀辰雄や初期の三島由紀夫の作品でした。三島由紀夫の小説には文学的に大きな影響を受けています。小説を書くことに、まだまだ素人な自分は最初、三島由紀夫さんの「文章読本」を実践的な味方にしていました。それに学んで「観賞的文章」を心がけています。

 

『あいにさらさら』というのは、それから半月もしないうちに、半ば衝動的に書いたものです。青森県に「あいにさらさら」という歌い出しの童歌があるそうです。それは小さい子供が、軽い怪我をしたときに、大人が優しくさすりながらとなえてくれるおまじない、「痛いのさん……飛んでいけ……!」というような童歌です。

霧子も小さい頃に歌ってもらって、それを今度は歌ってあげる、という情景を書いたものです。 そのささやかなおまじないが、お祈りとなって、危篤の少年の思い出のなかで「救い」になる。霧子の思いがけないところで、ある「言霊」が、少年に力を与えてくれる、ということを考えて書いたものでした。

 

『言下』というのは、凛世のことを書いたものですが、とても難しかったのを覚えています。【凜凛、凛世】の「雨宿り」を下敷きに書いた作品です。

私は邦楽の中でいちばんと言うほど、井上陽水が好きなのですが、井上陽水さんの楽曲のなかに忌野清志郎さんと共作したという「帰れない二人」という曲がありまして、このコミュをみたときに頭に流れてきてぴったりだと思ったのが、書いてみようと思ったきっかけでした。

しかし、最初はあまり思うように筆は進まず、とても苦労をしましたが、それもこれも特に内容を考えずに、凛世と二人きりで居ることの張り詰めた感情と、雨のつめたさを、たんたんと、表してゆくことに専念していたからでしょうか。書き出しの一文に納得が入ったところから、徐々に形になってゆきました。凛世には、恋愛という大きな主題がありますが、つめたさに生じる暖かさ、二人きりの四阿にある空間の疎外感、その端々に恋という概念、エロスの愛を際立たせられると良いだろうと考えていました。なので専ら、参考として傍にあったのは、川端康成の作品でした。ここでは、まだ初恋のようなあどけなさが残るものに止まりますが、さらに追求すれば、G.R.A.D.編に見られるような片恋も表現できるのでしょうか。しかし、あんまり大人っぽくてもいけないような気もしますから、やはり、この塩梅は相当難しそうです。

 

『雪解抄』というのは、それから半年もあけて、久しぶりに筆をとって出来たものでした。

小説を書くことに自信をなくしていたのですが、あまり難しいことを考えずに、自分の感性だけをたよりにして、一文ずつ、なかなか面白い連想の、丁度よいなと思うものだけをあつめた詩の世界を、そのまま「雪」というイメージに照らし合わせたものと言えるでしょうか。

『黄昏』というのも、ほとんど同じです。理性に制御されずに、無意識のうちにある言葉を書き付けてゆく「自動記述」「オートマティスム」という手法を用いています。ですが、その時にはパッと出てきたものが、あとから考えればなにか見覚えのある言葉であったりして、その気づきの面白さと、この手法の難しさを感じました。

「お医者さんごっこ」のような子供じみた遊びを、さも「神話」のように語って尤もらしくする、というような感じでしょうか。霧子の体をパン、血液を葡萄酒に見立てた儀式を執り行う、というのは、少しエロティックな後付けですが、霧子はいつも遠い眼をしているでしょう。

 

『幽谷霧子と或る少女』というのは、あまり私自身が語れることはありません。宮沢賢治の「マリヴロンと少女」と「めくらぶだうと虹」という作品をオマージュしたものです。

宮沢賢治は、われわれの労働の中にこそ、生活の中にこそ「芸術」がなければならない、ということを云いました。彼女は「医者」を志していますが、その誠実さ、優しさ、強かさ、それらはすべて、彼女の大きな創造性や感受性に根差しているものなのではないでしょうか。本来は「医者」という職業には、況して日々の生活の中には、全く関係のなさそうなクリエイティブな思考が、実はそれらを支えている根幹をなす重要な部分なのかも知れない。そういうようなことを考えながら書いていました。

本当は、「人生」と「芸術」という対立から、「ストーリー・ストーリー」のことも踏まえて、話してゆきたいなと思うのですが、うまく言葉に纏められる自信がないので、今度にします。

 

『ある晩、お月様とデートする話』というのは、題名からも分かる通り、イナガキ・タルホ ・コスモロジーに触発されて書いたものです。

いかにも「一千一秒物語」に出てきそうな題名ですが、実際には、そこまで天体に親切なことはありません。月に殴りかかるくらいです。

ところで、なぜ自分が、これほど幽谷霧子さんに気を引かれるのかといえば、それは本質的に、ほとんど違う人間だからなのかも知れません。霧子は将来的に医者に落ち着くのでしょうが、おそらく私はこのままずっと創作に打ち込んでいるでしょう。彼女が太陽的だと言うのなら、私はつくづく、自分が月球的だと思うのです。「ルナティック」であろうとしているのです。

月球的な人間というのが存在します。太陽の裏にあって、周りが暗くなれば、それに憧れるように光を反射する。しかし、その身に近づいてみれば、ただ荒涼とした土地があるばかり。いつもすまして高貴なふりをしては、うちにひそむのはフラジリデートな、薄情さ、感傷さの為に、意地の悪さや意志の強さを応援する。そんな、月球的な人間が世の中には存在しています。

しかし、なぜか対極にあるはずの彼女は、そういう想いが馬鹿馬鹿しくなるほど、なにもかもを受け止めてしまう、包摂してしまう、そしていくら掬い上げても滾々とわき出て止まない、源泉であるような心の深さを想わせるのです。

かならずしも彼女を太陽的だとは断言できない、ある種の共感があるのです。それはこちらからなのか、それとも向こうからなのか、それがお互いさまであれば、とても幸せなことです。

 

 

 

 

【我・思・君・思】「かなかな」の主題と構成

 

 

 

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(序)

幽谷霧子のコミュを読み進めてゆくと、二つの相反する要素がしばしば登場し、二つのものの対照的配置から生じるエネルギーが彼女によって紐解かれてゆきます。

【我・思・君・思】「かなかな」の場合には、「私」と「世界」が、対になっている題材でしょう。すべてのものごとには二つの対極から成る、一面観ではなく両面から把握しようとする、もう一方の観点を見逃さない、のが霧子の考え方の基本のひとつと言えると思います。

ここでは仮に、「パースペクティヴ」と言います。

(あるいは、霧子に限らず、シャニマス 全体に言えることかも知れません。二つの相反する要素が一対になっている表現は、シャニマス の最大のテーマと言えます。私は、ここに深く文学性を感じずにはいられません。)

そのことを心のなかに暖めながら、順次に読み進めて、印象をまとめてゆきましょう。

 

先ず表題ですが、【我・思・君・思】は「みんみん」と「かなかな」に分けられます。いつも通りの日常的な、アンティーカのある夏の日を描いた「みんみん」に対し、あはれを感じさせる「かなかな」をもって調和的な情緒をとらえます。ここでは「かなかな」を掲げます。

通観すると、表題に醸し出された通り、デカルトの提唱した命題「我思う、故に我在り」がモチーフになっていることが分かります。それを本題として、三つの段落に区切ることができます。基本的な三幕構成になります。

つまり、このコミュの展開は、霧子の視点から始まる適当な状況説明を導入に、咲耶を通じてデカルトの命題を共有し、霧子の心情が現れたところで結末を迎えます。

しかし、このコミュの表題は、【我・思・我・在】ではありません。デカルトの場合はともかく、霧子はこれを【我・思・君・思】とするのです。ここには、霧子自身の考え方が現れており、それが主に語られてゆきます。

 

デカルトの「方法的懐疑」を確認しておきましょう。

デカルトが抱いていた以前からの諸学への不満は、どんなに緻密に論証を組み立てても、肝心の基盤が不確かなのであれば砂上の楼閣にすぎない、ということでした。

つまり、「現実」に於いて考えていることが確保できなければ、どんな論証も非現実的になってしまいます。

どんな疑わしさも入り込む余地のない「現実」を確保する為に、彼が考え出した措置が「方法的懐疑」です。

それは、確実なものと疑わしいものの厳密な分離です。ほんの少しでも疑わしさの残るものは、断固としてそれを偽とみなし、斥ける。「疑いを容れないもの」を基準に、徹底した懐疑をもって確実性を模索しました。

デカルトはこの方法によって、「我思う、故に我在り」という哲学の第一原理へとたどり着きました。

しかし、霧子はデカルトと少し異なる態度で、この問題を共有します。以下、冒頭から展開の順にしたがって、概観してみることにしましょう。

 

(1)

先ず冒頭の場面は、敢えて不可解な表現を多く残しています。霧子自身の視点から目覚めたところを察するに、ごく自然に、夕方の事務所の風景を「現実」として見ていることを想像し、補います。しかし、眼前には咲耶のほかに誰も居ないこと、仮眠をしようとしていたこと、なぜ眠っていたのか、「さっきの話」とはなにかなど、前半の「みんみん」からの脈絡はほとんどありません。

 

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それに加えて、咲耶の一言から、眼前の風景が「現実」であるということにも、確実性が危ぶまれてゆきます。

この時すでに、私たちは完全に宙吊りの状態にさらされます。ここに映し出されている「世界」の光景が、「夢」とも「現実」とも判明しがたくなれば、緊張感が漂い、不気味な静けさだけが鮮明に浮かび上がります。

すべてにおいて、確実性の欠如した状況が作り出されたところで、この導入は完了したと言えるでしょう。

満を持して、咲耶が問題の話を始めます。

 

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(2)

『私は今ここにいる』

現実でも夢の中でも、きっとそう思っているはずです。だとしたら、現実だと思っている世界も、そう見えているだけで、本当は夢で、すべては幻だと言われても否定できません。あらゆる認識には確実性がないのです。

デカルトは、疑いの余地をそうして認めてゆきます。

 

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(…)

 

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咲耶の一言のあとに、映し出される景色は、馴染み深いものであるはずなのに、どこか現実味のないリアリティだけが剥き出しになったような驚異として見られます。

「かなかな」というセミの鳴き声も、例外ではありません。心のありよう次第で事象は大きく変容してしまう、その象徴的なものとして、常に描写されています。

(おそらくは、前半の「みんみん」にも言えることかも知れません。心のありよう次第で、つまり、セミになりきれば「暑さ」という認識も変わりえるのではないか。私たちの心の内で「みんみん」というセミの鳴き声は、夏の「暑さ」と自然に重なり合ってしまうのです。)

 

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この「世界」は、本当は夢かも知れない。

「夢」ではないと否定できない。

「現実」ではないかも知れない。

それは、私たちの「存在」を疑うことになりかねません。シリアスな問題に否応なしに直面します。そして、少なからず、とまどいや恐怖を覚えるかと思います。

なぜなら、私たちは認識判断の内に「現実」と「夢」を自然に区別し、その上で「現実」にあるものを「存在」している、と当然のように受け容れているからです。

「現実」にあるものが、すなわち「存在」している、ということは私たちにとって自明であり、日常的にそれを疑うことはありません。「現実」は、「世界」がいつもすでにそこにあるものとして確信しているからです。

「現実」が本当は「現実ではない」のなら、そこにある「存在」も本当は「存在しない」のではないか。

私という存在も、本当は「存在しない」かも知れない。そう思えば、誰もが恐ろしいと感じるはずです。

 

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ですが、霧子はすぐに落ち着きを取り戻します。安らかに少し微笑んで、狼狽する様子はほとんどありません。

なぜ、霧子は平静でいられたのでしょうか。

シルエットになる描写は、「存在」の不確実性を表していると言えます。『私は今ここにいる』ということが、その「現実」が疑われている状態です。しかし、霧子はシルエットの状態から元に戻ります。つまり、「存在」の確実性を見出すことができた、自らの「存在」を発見することができた、ということになるのでしょうか。

実は、すでにここには「存在」への反省があるのです。

 

デカルトは、そう考えました。前述した通り、すべてが虚偽だとしても、まさに疑っている意識が確実であるならば、そのように意識している自らの「存在」を疑うことはできない。すなわち、「我思う、故に我在り」と。

おそらく霧子は、知らずしらずのうちにこの命題を共有していたのではないでしょうか。つまり、彼女には自らの「存在」を反省する心が普段からあったのでしょう。それは、彼女の性格を特徴づけている性質の一つと言えるのではないでしょうか。いわゆる、前述した考え方の「パースペクティヴ」が、これにあたります。

 

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ですが、ここで少し、デカルトの方法と霧子の考え方にすれ違いが見られます。霧子は、デカルトの方法を完全に共有しているとは言えません。なぜなら、疑っている「現実」、疑っている「世界」を、疑いえるものとして斥けている、否定しているわけではないからです。

あるいは、「現実」ではないとみなして、斥けるほど、否定するほど、疑っているわけではないからです。

 

デカルトの方法を、咲耶の言葉から見てみましょう。

「自分が信じているものの中で、疑いを容れないものはない」という疑っている意識があるからこそ、そうして意識している「わたくしは在る」と言えます。そして、それには、「この世界も、今見ているように見せられているだけかもしれない」という疑っている対象がある、「わたくしは思う」対象が常になければなりません。

デカルトはそうして「わたくしは在る」というところに「疑いを容れない」確実性を見出し、帰着するのです。

「夢」か「現実」か分からない「世界」、

「偽」か「真実」か分からない「世界」は疑いえるものとして「偽」とみなし、「真実」ではないとみなして、斥ける、否定する。この徹底した懐疑があるからこそ、「自我」の存在は確実に、より純粋なものになります。

デカルトは、「世界」の存在の可疑性に対して、自らの「自我」の存在の不可疑性を論理的に説いたのです。

 

しかし、霧子は、そんな「デカルトさん」のことを、「不思議な人」だと言います。……

 

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(3)

では、霧子が意図しているものとは何でしょうか。

ここからは、霧子の考え方が披瀝されるにしたがって、デカルトの「方法的懐疑」から離れてゆきます。

しかし、部分的には、その要素を残していると言えます。霧子の考え方は、この方法に全くそぐわないというわけではありません。デカルトは、日常的に疑いがたい自明性を疑ってゆくことで「世界」を見直し、いわゆる「パースペクティヴ」を捉えておりました。そこから、「自我」の確実性を基礎として考え始めますが、霧子は、「パースペクティヴ」に改めて立ち帰るのです。

はたして、デカルトは完全に「パースペクティヴ」を捉えられていたと言えるのでしょうか。いわば、神の視点とも言える領域に到達していたと言えるのでしょうか。

霧子は「パースペクティヴ」な、より純粋な「意識」を、いまだに、変わらずに心がけていると言えます。

「パースペクティヴ」とは、すなわち、視点の多極化であり、自然に考えられる主観性の立場から脱け出すことを意味します。そこから、「私」と「世界」の関係性を反省したところに、デカルトとの差異が現れます。

 

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「意識」とは、なにかについての意識であり、常にある対象に向かっているという性質があります。霧子は常に「世界」を「意識」しています。しかし、それは疑うというように「存在」に主題性を置いている「意識」ではありません。霧子が関心を持っているのは、「存在」の確信ではなく、「意識」がどうあるのか、にあります。つまり、「意識する存在」と「意識される存在」の相互の関係性に関心を持っているのです。その為に、「意識する存在」としての「私」と、「意識される存在」としての「世界」を、先入見の入らない純粋な意識の主観性から「パースペクティヴ」に捉えようとするのです。

「パースペクティヴ」な視野を心がける霧子にとって、「世界」すなわち「意識される存在」とは、感覚所与に経験されるすべての事象であり、物質的にも精神的にも、森羅万象のすべてが「世界」と言えます。そして、「世界」の内に存在する主観性ではなく「世界」の手前に見出す主観性こそ「パースペクティヴ」と言えます。

(少し本筋から離れますが、幽谷霧子のファン感謝祭編「ふねがでます」は、まさしく「パースペクティヴ」な彼女の考え方が、語られているコミュと言えます。)

 

「西日がきつい」ようであり、咲耶は「少しカーテンを引こうか」と提案します。しかし、霧子は引かなくて「いいの」と言います。この描写は、それが、確実性のない「偽」であったとしても、あるいは煩わしいものであったとしても、「意識される存在」として純粋に捉えようとすることを示唆するものではないでしょうか。

そんな霧子が「意識する」夏の夕方は、さまざまな思い込みや、前もってつくられた観念が重なり合ったような「日常的な世界」のものではなかったのでしょう。

そんな夏の夕方はもはや、言葉にならないのでしょう。それを、霧子は素朴に言い表します。

「とっても……夕方で……」「すごく夏……」

 

そして、「世界」すなわち「意識される存在」の中には、もちろん「咲耶さん」も含まれているのです。「私」と「世界」、そして、そこに「他者」という別の主体の「私」がいて、いよいよ「パースペクティヴ」は錯綜してゆくのですが、それは結華とのコミュである【君・空・我・空】にて、紐解かれることでしょう。

(もし仮に、この出来事が、現実である可能性は捨てきれないとしても、夕方の事務所のソファで、恋鐘や摩美々や結華に見守られながら、ひとり咲耶の肩を借りて転寝をする霧子が、いっぱいの咲耶の匂いに誘われて、見ていた夢だとしたら、と私は思いをつのらせます。)

 

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霧子にとって、現実に実在する咲耶も、夢の中にいる実在しない咲耶も、どちらも「意識される存在」であり、「世界」のものであることに間違いありません。

夢でも、夢ではなくても、咲耶が「意識される存在」であり、霧子が「意識する存在」として「意識する」ことができるのなら「嬉しいな……」と霧子は言うのです。そこには、限りなく純粋な「意識」があるのでしょう。つまり、それらの「存在」の確実性が問われない、確信に何の変化も加えることのない「意識」があるのです。

霧子の言葉で、「お祈り」と言えるでしょうか。

 

そして、デカルトの「方法的懐疑」と、霧子の考え方にある、決定的な差異がここに明らかになります。

デカルトが意図した試みは、絶対的に疑いを容れない「存在」を明らかにする為の疑うということ、すなわち「わたくしは思う」という「意識」であり、そこから、「わたくしは在る」という「存在」にたどり着きます。すなわち、【我・思・我・在】

しかし、霧子は「意識」の方法に深く着目しています。「世界」がどのようにして「私」に与えられているか「意識される」かに対して、「世界」をどのようにして「私」は捉えるのか「意識する」か、に着目します。「意識する存在」がなければ、「意識される存在」はありません。反対に、「意識される存在」がなければ、「意識する存在」はありません。霧子にとって、ここでもっとも「意識される存在」といえば「君」、つまり「咲耶」のことでしょう。「わたくしは思う」そして「君は思われる」「世界は思われる」故に「我思う」。すなわち、【我・思・君・思】


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はたして、今までの出来事は「夢」だったのでしょうか。それとも、「現実」だったのでしょうか。もはや、論ずるに足りません。「夢」も「現実」も、相互に浸透した「世界」が、ここには広がっているからです。

霧子にとって、咲耶と過ごした時間は、霧子が経験した紛れもない事実であり「存在しない」とは言えません。

「世界」があるからこそ、霧子は「世界」を「意識」することができます。「咲耶さん」がいるからこそ、霧子は「咲耶さん」に「おやすみ」を言えます。「世界」があるからこそ、霧子は「意識する存在」でいられます。それは、「デカルトさん」も例外ではありません。

「世界」があるからこそ、霧子は「霧子」でいられる、と言えるのではないでしょうか。

 

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むすび

幽谷霧子は「自分を変えたくて」、アイドルのオーディションにやって来ました。すごく心配性で、人のことばかりを考える彼女には「意識する」ことしかない為に、自分が本当は「存在しない」のではないか、という不安を抱えることも、きっと多かったのではないでしょうか。ですが、自分を変えるのではなく、そのままの彼女を、プロデューサーやアンティーカのメンバーが確かに見ていることによって、霧子は「意識する存在」であり「意識される存在」である自分を発見してゆくのです。そうした不安を克服してゆく霧子だからこそ、この問題を共有できたのではないでしょうか。このコミュには、幽谷霧子の「第一哲学」が克明に語られているのです。しかし、まだまだ「存在」への反省は終わりません。終わらないからこそ「存在」しているのです。

それから、霧子の考え方を哲学の専門分野から論ずるとすれば、フッサールの提唱した《現象学》が想起されます。さらに限定すれば、フッサールが「自然的態度」から離れて意識の「志向性」に目を向ける為に、デカルトの「方法的懐疑」を手段として生かしたところから、「志向性」が深化してゆくにつれて「方法的懐疑」から離れていった、という「現象学的還元」の道筋が、参考として非常によく見られるのではないかと思います。

これを書くにあたり、《現象学》についての様々な文献をとても参考にさせていただきました。

(さいごに、ここまでお読みくださり有難うございました。そして、幽谷霧子さんに感謝の意を捧げます。)

 

文献

デカルト方法序説 ほか』(野田又夫・井上庄七・水野和久・神野慧一郎 訳)中央公論新社。(2001)

デカルト省察 情念論』(井上庄七・森啓・野田又夫 訳)中央公論新社。(2002)

フッサールデカルト省察』(浜渦辰二 訳)岩波文庫。(2001)

新田義弘『現象学とは何か』講談社学術文庫。(1992)

新田義弘『現象学と近代哲学』岩波書店。(1995)

 

 

幽谷霧子の方法序説

 


はじめに、この種の哲学が、デカルトにおける『方法序説』のような、ある原理が本来そこにおいて営まられるべき場所にいかにしたら到達できるのか、それが厳密には何に支えられて営まられるのかについての、方法論上の考察に基づくものになるかも知れない。そして、それは哲学の本体と同じくらい、あるいはそれ以上に重要な性質をもっている。おそらく、序論がすなわち本論になり、本論がすなわち序論になる。つまり、いつかは最終的な結論にいたるとは思いがたいような、ぐるぐる廻りつづけ、ますます話はもつれ、こんがらがり、わけが分からないものになるかも知れない。それほど、あざやかな解決は望まれない問題であることを述べておかなくてはならない。それは、いわゆる、なにがいちばんの実在と言えるのか、なにがそれを実在させるのか、その根本の意味を問う本体論の問題である。

 

本来は、アイドルという事柄の中に、すでに内包されている要素ではあるが、宗教的な性質や芸術的な性質、それらが直接的に取り上げられる彼女の場合には、とても密接に関わる問題ではないだろうか。それらを、その場限りの拠り所としてではなく、あくまで相対的な立場を守りながら、なお以て臨まれるものとして捉えている彼女だからこそ、この問題を問題とすることができるのではないだろうか。それらの事柄に対して、熱に浮かされるほど身近に感じ入るということがない彼女は、それらを目的とするよりも、ひとつの方法として考えているような趣きが感じられるのである。それは優しさ、ゆるすことのできる寛容さだろうか。ひとつの方法を絶対視することなく、相矛盾する方法を持ち合わせることは、彼女にとって、そう珍しいことではないようである。自他の区別が前提にない、分別がないということである。

 


幽谷霧子、彼女自身は、その問題を意識しているとは言いがたいかも知れないが、しかし、短絡的に結論を急ぐことはせずに、ゆっくりと、そして楽しみながら、その問題を抱えてゆこうとする心構えが確かにあるように思われるのである。それ故に、安易に夢見がちの一言では捉えきれない、真理を要求するような思想的な、哲学的な一面を垣間見るのである。彼女の中にある、強く思い込んで疑わない、たよりとする、信じる、または執着するという事柄に対して、とても厳しい精神が、われわれより遥かに広い可能性の世界を見ることのできる所以のひとつ、または、アイドルとしての彼女の魅力のひとつに繋がっているのではないだろうか。

 

ここで注意しなければならないことは、幽谷霧子自身の言葉や行動を、自然的な態度を以て見ていては、いつまでも彼女の本質を捉えることは出来ないということである。でなければ、ただ単に不思議な世界観をもった女の子としか見られなくなってしまう。あるいは、非現実的な世界観に逃げている、とも受け取ってしまいかねない。そうした自己投影をするのではなく、(いわば心理学的な)主体的な経験をしていくことが必要であり、それを目指していかなければならない。彼女自身の言葉や行動の裏にある、情動的な部分を見ていかなくてはならない。その為には、われわれの日常的な、常識的な感覚を一旦取り外してみることが重要なのである。

 

 

宗教的な、または医学的な

幽谷霧子は「お祈り」をする。宗教的な絶対性を信じているのか、しかし、幽谷霧子は医学を志している。

医学に於いて合理性を要求している。それは本来、宗教の理念とは相反する意識である。しかし、宗教に於いて非合理性も要求する。それは本来、医学や科学の理念とは相反する意識である。ひどく極端かも知れないが、この相矛盾する意識を保持するということは並大抵のことではない。目の前にいるけがをした人に対して、何かに頼るようなことはしない。しかし、自分ができることには限界があることも知らないわけではないのである。

だが彼女は、その時になれば、すぐさま合理的な行動に出るのだろう。「お祈り」ではなく、治療をするのだろう。それは「お祈り」が絶対性に向けられた意識だとしても、詰まるところ、それが心のありようであることに変わりはない、相対的な意識であることに変わりはないという気持ちのあらわれではないだろうか。

彼女にとっては、宗教的な意識である「お祈り」も、治療と同じく自分が尽くせる方法のひとつにすぎないのではないだろうか。

 

本当は……お祈りなんてなくても……

みんな……

ちゃんと……元気に……

帰ってきてくれるんです……

でも……

わたしには……

できることが……多くないから……

( “ふねがでます” より)

 


芸術的な、または人生的な

幽谷霧子は「物語性」を作る。芸術的な絶対性を信じているのか、しかし、幽谷霧子は人生を生きている。

芸術は、人生にどう関係しているのだろうか。人生があるからこそ、芸術は存在しているのか、夢は存在しているのか、物語を作り出すことができるのか。芸術はそうして、人生を前提にして存在しているのだろうか。人生がなければ、芸術はないのだろうか。ならば、芸術があろうがなかろうが、人生には関係がないのだろうか。

では人生は、現実性と合理性だけで成り立っているものだろうか。しかし、それでは、人生が完全なものになってしまうだろう。そこにあるのは機械である。人生を、人生と示すものがなければ、人生を認識することはできない。その為に、相反する理想の世界、非合理で無秩序な世界、「物語性」が要求されるのである。もちろん、それらも、絶対性に向けられた世界であるが、人生との相対的関係から逸脱するものではない。人生が芸術から離せられないように、芸術も人生からは離せられない。芸術と人生は相対的関係にあるのである。

ただのコデマリの花は、「コデマリさん」として彼女が創作する物語の中に登場する、または、もしかしたら「コデマリさん」なのかも知れないと感じている。その途端に、無機的だったコデマリの花は、彼女の代わりに、われわれには想像もつかない新しい現象になって、変わってゆくのだろう。しかし、彼女は、そのままの、ただのコデマリの花を見失うことはない。その、ただのコデマリの花を見つめたところに、「コデマリさん」がふと出てきて、それはコデマリの花に間違いはないのである。この時、もはや「コデマリさん」は、「物語性」を帯びたものでもあるが、真実にもなり得るのである。コデマリの花と「コデマリさん」を、その時その場に、同じく見ている。相互に滲透しているのである。

コデマリさん」を見ようとしてコデマリの花を見ているわけでも「コデマリさん」を見ているわけでもない。ただただ、コデマリの花を見ているし「コデマリさん」を見ている。「コデマリさん」が特別なわけではないのである。それも、心のありようであることに変わりはない、相対的な意識であることに変わりはないという気持ちのあらわれではないだろうか。

彼女にとっては、芸術的な意識である「物語性」も、人生の時間のうちにある感じ方のひとつ、方法のひとつにすぎないのではないだろうか。

 

ふふ……

お花さんたちは……話しません……

そんな気が……するだけです……

(信頼度Lv.9ボイス より)

 

 

 

そして、幽谷霧子は、それらが相対的でありふれた掴みどころのないものであることに、虚しさを感じるよりも先に、嬉しさや楽しさを感じるのである。なぜなら、それが絶対的でなくとも、彼女自身に、その時その場に感じている意識が確かにあるからである。世界があって、わたしもいて、あなたもいて、それが真実だろうと虚偽だろうとそれに向かっている、意識があるからである。

幽谷霧子は、宗教的にも芸術的にもそれを抱きつづけるが、アイドルをやりつづけるが、それはむしろ、逆説的に、自分という存在に立ち帰ることや、ある本当の常識に立ち帰る、その方法のひとつなのかも知れない。

 

(2020/06/15)

(2020/06/26)

 

 

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相対について

 

 

本当のところは、書き残すことに気の進まぬ思いが拭い去れない。ならば、書かなければ良いではないかと思われるのが当然であろうが、そうもゆかず、もう書いているしか手立てがない、書かざるを得ないというのが実情である。書きたくないが書きたい、書きたいが書きたくない、そのどうどう巡りである。しかし、この相矛盾する意識は、どちらが否定でどちらが肯定かも分別することができないものであり、いわゆる、どちらも否定であり肯定である。その現実が受け入れられた時に、私はようやく筆をとって、書くのである。それは、自らの中に相対的な性質を認めた上での行動である。だからといって、書きたくないという意識を排したわけではない。その意識があるからこそ、認めることが出来たのである。

「書きたくない」という意識は、いわゆる意地であろう。すでに理解を終えた、智慧をもったものなら、書く必要も、書こうと思うこともない。その様な姿に、私は憧れ、その様な姿でなくてはならないと思うのであるが、もう既に、ここには自己矛盾があるのである。

「書きたい」という意識は、それに対して理性であろう。どうしても理解できない、はっきりしない不安に苛まれている、あの緊張感から、私は言葉によって、ひたすら方法を模索する、その欲求があるのである。

何かを「書く」という意識は、この二つの意識のちょうどあいだにある。書こうと思わなくなることに憧れて、書きつづけるのだが、書きつづけられるのは、書こうと思わなくなることに憧れがあるからである。この時に、現実にあるのは、相対的な、人間的な私である。憧れているということは、いまだ、書こうと思わない境地には至っていないということである。しかし、いずれは分別ざかりになるということもなさそうである。

私は、相対的な存在であるかぎり、「憧れ」ているからである。

(もっとも、「書きたくない」のは、まだ右も左も分からない時分に「書きたくない」と思っていたこと、いわゆる、「知ったかぶり」をしていたことである……)

 

 


ここに登場したのは、別の言葉に置き換えれば、絶対者と、それに憧れを抱く相対主義的な人間の姿である。絶対者とはいえども、それは真理の光景であり、人格的なものではない。それに対して、相対的なこと以外は認知できない人間にとっては、まったくイメージのつかないものである。人間が人間であるかぎり到達できない、無限の、絶対的なもの。それは、反対の立場にある客体だからこそ輝かしいものだが、相対的な立場にあるのは人間だけである。相互関係に入ってゆくには、生きて、生きて、生き延びていかなければならない。人生を生きていなければ、それは見えなくなるのである。

そこには、宗教も芸術も科学も人生もあるだろう。それぞれ、真理を探求する、絶対者にたどり着く為の思想である。それは生きていなければ持つことはできない。逆に言い換えれば、生きているということは思想を持つこと、つまりは、真理を探求して尋ねあぐむことを意味するのではないか。どの分野に於いても、それは結果的に、死の観念に触れることになるのである。

しかし、生きているということも結局、相対的であり、生を考えることは死を考えることにほかならない。

 


何回も同じことを言っているようになるかもしれない。「絶対」という理想を考えるものであり、「相対」という現実を考えるものである。しかし、この相互関係から逸脱した、理想は理想として、現実は現実として、独立させて考えようとしてはならない。それが条件である。

「絶対」とは、完全なるもの、無限なるもの、理想的であり、夢想的であり、虚偽であり虚無である。あるいは、まったくその反対である。

「相対」とは、不全なるもの、有限なるもの、現実的であり、実際的であり、事実であり真実である。あるいは、まったくその反対である。

すべては絶対視するには及ばない、相対的なものである。宗教も、芸術も、科学も、相対的なものであることに変わりはない。しかし、それらは絶対的なものについての意識であり、その対象に向かっているものである。あえて、逆らう、抗する意識なのである。生きることに対して、死に向かう意識と言ってもよいのではないか。それ故に、宗教も、芸術も、科学も、思想は一見するとグロテスクなものを表している。それらは、癒されるものでも慰められるものでもないだろう。しかし、また、逆説的には、そういうものかもしれない。

思想のあやうさ、あやまちは、相対性を忘れてしまうこと、自棄に走ってしまうことである。生きることをする為に、死を考えることが、死ぬことをする為に考えることになってしまう。目的の為の手段が肥大して、徐々に目的を抑圧してしまうのである。目的の為の手段、思想が、目的になり代わっては本末転倒である。宗教も、芸術も、科学も、「絶対」を見出し、それが完全に目的になってしまった時、もはや、その惨状は目も当てられないだろう。それらの異常な不気味さ不快さが、まったくあらわになるからである。

いつしか、相対的な絶対的意識に「絶対」を見出し、それを目指していると錯覚する。それは相対的な立場からそう見えてしまうだけのことであり、そうだとしたら、そこから脱却すればよいだけの話になってしまう。安易に相対主義的立場から逃れようとしてはいけない。考えつづける辛抱強さ、真面目さを持たなくてはいけない。「絶対」とは実に純粋であるべきだが、事情はそう単純ではない。かと言って、複雑というわけでもない。憧れの意識は、いつでもはっきりしているからだ。この不安定さは、安定した不安定さを保ちつづけることにある。

ならば、「絶対」的な「真理」や「善」、若しくは「美」は、その「相対」性のかなたにある交錯点にあるのかもしれない。または、そこに到達しようとする意志にあるのかもしれない。人間のなかにある「相対」性は、生と死、宗教と科学、芸術と人生、それでなくとも、言いたいけど言いたくないこと、書きたいけど書きたくないこと、知りたいけど知りたくないこと、完成であり未完成、完全であり不完全、枚挙にいとまがない。それらは、ずっと平行線であるかもしれないが、希望であって絶望であり、絶望であって希望であり、夢はあるが夢はなく、夢はない、が、夢はある、のである。

この押し問答の最後に、若干のオプティミズムを残して終わりたい、と不肖な私は思うのである。

 

「外に出ようとしないで、汝自身のうちに帰れ。

 真理はひとの心のなかに宿っている。」